坊門信清 (BOMON Nobukiyo)

坊門 信清(ぼうもん のぶきよ、平治元年(1159年) - 建保4年3月14日 (旧暦)(1216年4月2日))は、鎌倉時代の公卿。
坊門信隆の子。
母は、持明院通基の女。
姉に高倉天皇の女院藤原殖子がおり、後鳥羽天皇は甥にあたる。
子に承久の乱後鳥羽上皇方の大将・坊門忠信、源実朝に嫁いだ西八条殿がいる。
坊門内府・太秦内府と呼ばれた。

長寛元年(1163年)叙爵。
侍従・少納言・七条院(藤原殖子)別当・馬寮・右兵衛督などを歴任。
建久8年(1197年)従三位に叙され、翌年参議に任ぜられ、のち権大納言に昇進する。
元久元年(1204年)権大納言を辞すが、建暦元年(1211年)還任して内大臣まで昇進した。
しかし翌年上表して大臣を辞した。
議政官として右衛門督・播磨国権守・鳥羽院別当及び厩別当などを兼帯した。
建保3年(1215年)2月嵯峨別業において出家し、翌年3月に薨去。

後鳥羽天皇の叔父として権力をふるい、建暦元年(1211年)に内大臣になる。
侍従だった寿永2年(1183年)の法住寺合戦に際し後鳥羽天皇を守った。
建仁3年(1203年)には播磨国を賜った際、御所五辻殿を造進。
翌年の元久元年には後鳥羽上皇の移御があった。
また右馬頭在任中の建久6年、伊勢例幣に際し信清の沙汰によって馬寮から馬が進められなかった時、九条兼実は「外戚の威を振りかざして厳重な神事に関わる」といった批判を浴びせたことがあった(『玉葉』建久6年9月11日条)。
源実朝は、婿にあたるため、鎌倉幕府との交渉役ともなった。
なお、信清は四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。

[English Translation]