坪野平太郎 (TSUBONO Heitaro)

坪野 平太郎(つぼの へいたろう、1859年-1925年)は、日本の教育者、政治家。
第2代神戸市市長(在任:1901年5月27日 - 1905年3月17日)。
号は南陽(なんよう)。

概要

1886年(明治19年)に東京大学法科卒業。
病気療養のために安房郡北条(現:千葉県館山市)に滞在する。
北条滞在中は同地に英語学校を開校し、英語やテニスを教えた他、安房国が避暑避寒、海水浴に最適であることを全国に紹介したといわれる。
その後、外交官、大臣秘書、銀行取締役、兵庫県立商業学校(現:兵庫県立神戸商業高等学校)校長を経て、1901年(明治34年)に神戸市長に就任した。

市長在任時は、特に教育問題に力を入れた。
当時、神戸市の就学児童の激増と、小学校令の改正により、学校教室が大幅に不足していた。
そこで坪野は、学校増設を計画し、1901年(明治34年)に7校増設した。
しかしそれでも教室の絶対的不足は解消せず、一方で当時南下政策を続けるロシア帝国に対する備えの必要から軍事費が膨張し、教育費が削減される傾向があった。
坪野はその打開策として「二部教授」(二部授業)を導入した。
すなわち、学年のクラスを午前と午後とに分け、一人の教師がそれぞれ授業を行う方式であり、当時全国に例を見なかったことから話題になった。
教師の中には体力的に負担増となることから反対論も出されたが、坪野は手当面で工夫を凝らしたりして反対論を収めた。

この他、当時、女性教師を排斥、冷遇する傾向が強かった中で、坪野は「小学校が家庭の延長である以上は、児童の教養に必要な母性愛を欠いてはならない」との考えから、女性教員を積極的に増員した。
また、働く子供に教育の機会を提供する民間有志の夜学会を私立夜学校に改称した上で補助を行った。
さらに、各学校を視察する「市視学」という役職を設け、坪野は毎日夕食時に市視学からの学校視察の状況報告を受けた。
この制度は、坪野の「善人を育てるのは善人の教師が必要だ」という考えに基づくものであり、坪野は市視学に対し、市内の全教師400人の「善人」の程度を五段階で評価して内密に報告するよう命じていた。

こうした施策から坪野は「教育市長」と呼ばれることになるが、神戸市議の鹿島房次郎(後に第4代神戸市長)をはじめとする激しい市政批判にさらされた。
1905年(明治38年)、坪野は、東山避病院敷地買収を巡り、助役と共に引責辞任した。

市長辞任後は山口高等商業学校(現:山口大学)校長を経て、1911年(明治44年)に東京商科大学(現:一橋大学)第16代校長に就任。
当時、1909年(明治42年)の東京高等商業学校専攻部廃止令が、1908年(明治41年)、1909年(明治42年)の「一橋大学申酉事件」により、専攻部を4年間存続させることとなり、その期限が迫っていた。
坪野は渋沢栄一らと共に奔走を続け、1912年(明治45年)に、その廃止令の撤回に成功した。
1914年(大正3年)8月、坪野は病気のため校長を辞職した。

校長辞職後は再び千葉県安房郡北条町に滞在し、かつての英語学校を再開させた。
1919年(大正8年)には東京小石川に「安房育英会」を設立し、安房出身の在京者を援助した。
1923年(大正12年)の関東大震災後は神戸市に転居し、1925年(大正14年)、65歳で死去した。
坪野の名言として、「土地に惚れ 女房に惚れて その上に 仕事に惚れる ひとは仕合」が残っている。
墓所は館山市の慈恩院。

1859年(安政6年)

- 出生。

1886年(明治19年)

- 東京大学法科卒業。

1901年(明治34年)

- 神戸市第2代市長に就任。

1908年(明治41年)

- 山口高等商業学校(現:山口大学)第3代校長に就任。

1911年(明治44年)

- 東京商科大学(現:一橋大学)第16代校長に就任。

1925年(大正14年)

- 神戸市にて死去。

著書

『快馬一鞭』(1914年)

『叱牛録』(1925年)

[English Translation]