大久保忠隣 (OKUBO Tadachika)

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての武将・譜代大名。
相模国小田原藩の初代藩主。
講談で有名な旗本の大久保忠教の甥にあたる。
小田原藩大久保家初代。

生涯

天文22年(1553年)、松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男として三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)で生まれる。

永禄6年(1563年)、11歳の時から徳川家康に仕え、三河一向一揆などで戦う。
家康の家臣として元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原合戦などに参戦し、武功を挙げた。

文禄2年(1593年)には家康の3男・徳川秀忠付の家老となる。
文禄3年(1594年)、父・忠世が死去したため、家督を継いで相模小田原藩6万5000石の領主(のち初代藩主)となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中信州上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する。

慶長6年(1601年)、高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。
慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・徳川秀忠の政権の有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の中、家康重臣である本多正信・本多正純父子と対立する。
慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長19年(1614年)の大久保長安事件による浪人の馬場八左衛門の讒言により(諸説あり、後述)改易され、近江国に配流され、井伊直孝に預けられる。
この時、近江栗太郡中村郷に5000石の知行地を与えられている。

その後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日に死去。
享年75。

忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の大久保忠職が継ぐことが許され、後に小田原藩主として復帰を果たした。

人物・逸話

徳川四天王に劣らぬ武功派で、台徳院殿御実紀には「数年の忠功青史に赫々たり」とある。

井伊直孝が、家康の死後に大久保忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされる。

関ヶ原の戦いの後に、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をしたときに、秀忠の兄の結城秀康や松平忠吉の名前が挙がるなか、忠隣が秀忠を推薦したエピソードも知られる(『台徳院殿御実記』)。

改易の理由は表向きには忠隣の養女と山口重信との無断婚姻が理由とされているが、実際の理由は大久保長安事件によるとする説や本多正信・正純による策謀とする説、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、また和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説(三津木國輝『小田原藩主 大久保忠世・忠隣』)など諸説あり、明確な理由は不明である。

[English Translation]