大伴家持 (OTOMO no Yakamochi)

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日 (旧暦)(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人。
三十六歌仙の一人。
大納言大伴安麻呂の孫。
大納言大伴旅人の子。
従三位・中納言。

人物・来歴

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢国行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位に叙せられる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔、7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

天平宝字2年(758年)に因幡国国守。
翌天平宝字3年(759年)1月に国府町 (鳥取県)で万葉集の最後の歌を詠む。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)、石上宅嗣、佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案した。
事件は未遂に終わり、藤原良継一人が責任を負ったため罪には問われなかった。
しかし、天平宝字8年(764年)、薩摩国守への転任と言う報復人事を受けることになった。
神護景雲1年(767年)、大宰大弐に転じ、宝亀1年(770年)に民部少輔となるまでの間に宇佐八幡宮神託事件が起きているが、どのように関わったのかは不明。

宝亀7年(776年)、伊勢国国守。
伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥国に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の大伴永主も隠岐国に流された。
大同 (日本)3年(806年)に従三位に復された。

歌人として

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。
このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。
『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。
『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。
時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。
正五位になるのは、11年後のことである。
『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。

[English Translation]