大伴手拍 (OTOMO no Tauchi)

大伴手拍(おおとも の たうち、生年不明 - 和銅6年(713年)9月17日)は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族である。
姓(カバネ)は宿禰。
名の読みは他に「てうち」、「てがしわ」がある。
有力な大伴氏の一員だが、系譜は不明。
冠位は、造宮卿、従四位下。

事績
手拍が史料に初めて見えるのは、『日本書紀』の持統天皇3年6月癸未(2日)条である。
この日、志貴皇子、佐味宿那麻呂、羽田斉、伊余部馬飼、調老人、大伴手拍、巨勢多益須が撰善言司に任じられた。
このとき大伴宿禰手拍の位は務大参で、この頃大伴氏の最高位は大伴御行であった。

文武天皇2年(698年)11月23日の大嘗祭のとき、物部氏の支族榎井倭麻呂が大楯を立て、大伴手拍が楯と桙を立てた。
古くからの軍事氏族である物部氏と大伴氏が大嘗宮の門の前で楯と鉾を立てるのは、大嘗祭の恒例であった。
このとき手拍の位は直広肆であった。

御行が大宝元年(701年)に死ぬと、大伴氏の最高位の人物はその弟大伴安麻呂になり、手拍がそれに次いだ。
慶雲2年(705年)5月9日、正五位下の手柏は尾張守になった。

和銅元年(708年)3月13日に、正五位上で造宮卿になった。
平城京の造都を担う重職である。
和銅2年(709年)正月、正五位上から従四位下に昇った。
和銅6年(713年)9月17日に造宮卿、従四位下で死んだ。

[English Translation]