大内青巒 (OUCHI Seiran)

大内 青巒(おおうち せいらん、弘化2年4月17日 (旧暦)(1845年5月22日)- 大正7年(1918年)12月16日)は、明治期から大正期における仏教学者・思想家。
父は仙台藩士大内権右衛門。
名は退(まかる)。
字は巻之。
別号を藹々居士。
陸奥国(後の陸前国)宮城郡の出身。

経歴

はじめ常陸国水戸で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。
明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめた。
1874年(明治7年)雑誌『報四叢談』、1875年(明治8年)新聞『明教新報』を発刊し、仏教における啓蒙思想家として活動した。
1889年(明治22年)島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成した。
曹洞宗の『修証義』を起草した。
1914年(大正3年)東洋大学の学長に就任した。

家族

息子に洋画家の大内青坡、彫刻家・仏師の大内青圃、孫(青坡の息子)に画家・エッセイストの大内青琥がいる。
また娘婿は彫刻家の木村五郎である。

[English Translation]