大島渚 (OSHIMA Nagisa)

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 -)は、日本の映画監督。
夫人は女優の小山明子。
妹の大島瑛子は女優、プロデューサー。

岡山県玉野市生まれ。
5歳の時(現在の)岡山大学の教授だった父が死去し、母の実家のある京都市に移住。
現在は神奈川県藤沢市在住。

概要

国内では初期の作品から注目を集め、日本ヌーヴェルヴァーグの旗手とも呼ばれたが、自身はそのように呼ばれることを望んではいなかった。
彼の作品は同時代の映画作家たちよりはるかに政治的であったし、権力に対して戦闘的でもあった。
初期のモチーフの核心にあるものは常に権力機構がもたらす人間の蔑視であり、階級対立において侮蔑される側にいる人間の屈辱感を描き出した。

国際的名声を不動にしたのは、阿部定事件(1936年)を題材に社会の底辺にすむ男女の性的執着と究極の愛を描いた1976年の『愛のコリーダ』(LEmpire des sens)であった。
大島の闘いは必然的に、社会的な疎外感や屈辱感をもっとも鮮明に内包している人々の心理的探究へ移り、彼らを主要人物とした作品の制作へと向かうことになる。
日本映画史上に前例のない作品を示そうという意気込みと、黒澤明流のヒューマニズムと、さらには検閲制度に対する激しい批判精神からハードコア・ポルノグラフィー表現へと傾斜した。
大島は、公権力の干渉を避けるため日仏合作という形を取り、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行なった。

日本公開では、映倫管理委員会の介入によって作品が意味をなさないほどの大幅な修正を受けることになった。
『愛のコリーダ』は2000年にリバイバル上映された。
修正個所は大幅に減ったものの、ボカシが入り現在でも日本ではオリジナルを観ることはできない。

『愛の亡霊』(Empire of Passion) も同様のテーマを扱った作品で、不倫の妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという内容である。
ある程度性的描写を抑制した。
前作ほど話題にならなかったが、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。

監督・演出家としての才能だけではなく、演技者の素質を見抜く才にも希有なものがあった。
当時お笑い芸人としてしか認知されていなかったビートたけしを「彼以外には考えられない」として『戦場のメリークリスマス』の重要な役に抜擢した。
桜井啓子 (俳優)(『無理心中日本の夏』映画出演前はフーテン族だった)、荒木一郎(『日本春歌考』)、ザ・フォーク・クルセダーズ(『帰ってきたヨッパライ』)、横尾忠則(『新宿泥棒日記』)、栗田ひろみ(『夏の妹』本作が映画デビュー作で主演)、坂本龍一(『戦場のメリークリスマス』)など、俳優を本業としない人物や素人に近い新人俳優を多く抜擢し、作品においても彼らの生のままの素材を活かすことに成功している。
また、1950年代後半から人気ファッションモデルとして活躍していた芳村真理に女優への転向を促したのも大島であった。

1980年代後半から『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)のレギュラーパネラーとなり、テレビのコメンテーターとしても活躍した。
映画製作の資金捻出が目的ではなく、本人はテレビに出るのが生きがいだと述べている。
朝生の討論で、パネラーの国会議員に「批判しているだけ」と指摘され、「僕がテレビで話すことは社会的に価値のある活動だと思っている」と言い返したが、スタジオの観客からは笑われた。

激情型の性格で、韓国の文化人との対談において相手方に対し暴言(「ばかやろう」発言)を吐き問題を起こしたことがある。

大島が結婚30周年パーティーを開いた際、壇上で祝辞を述べる予定だった作家の野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、酩酊していた野坂に殴られた。
このときは、持っていたマイクで殴り返す奮迅ぶりを示した(のちに互いに反省文を書き送り合った)。

学生運動の経験もあり、安保反対・米軍撤退を主張しているが、既成の左翼の権力主義的な行動を激しく論難し続けた。
学生時代は防衛大学校校長を務めたことがある猪木正道に師事していた。

デビュー作の『愛と希望の街』は本人は当初『鳩を売る少年』という題名で企画を出したが、幹部から題名が暗くて地味だと抗議された。
妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という案を出したが、本人の知らないうちに『愛と希望の街』という題名に変えられてしまったという。

経歴

京都市立洛陽高等学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)卒業後、京都大学法学部に進む。
尚、京大時代の同窓の1人に推理作家の和久峻三がいる。
大学在学中は猪木正道に師事。
京都府学連委員長を務めて学生運動を行い、1951年の京大天皇事件や、1953年に松浦玲が放校処分になった荒神橋事件等に関わった。
成績が比較的良かったため、法学部助手試験を受験するが、不合格となる。
猪木は「君に学者は向きませんよ」と諭したという(猪木正道著作集・月報)。
また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

1954年京大卒業後、松竹大船に入社。
助監督を経て1959年に『愛と希望の街』で監督デビューした。
その後、『青春残酷物語』、『太陽の墓場』(1960年)などのヒット作で松竹ヌーベルバーグの旗手となる。

1961年、日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした作品『日本の夜と霧』(1960年)を、松竹が大島に無断で自主的に上映中止したことに猛抗議し、同社を退社。
その後、同時に松竹を退社した妻の小山や渡辺文雄、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟らに加え、小松方正、戸浦六宏らと共に映画制作会社「創造社」を創設する。

1962年の『天草四郎時貞』の興行的失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げる。
1963年の「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(日本テレビ、牛山純一プロデューサー)は話題となった。
1964年には、演出したテレビドラマ『青春の深き淵より』で芸術祭賞を受賞。
(その他にもテレビにおいて、1995年の『日本映画の百年』まで、約20本の主としてドキュメンタリー作品の演出、脚本、構成などを担当している。)

『白昼の通り魔』(1966年)、『忍者武芸帳』(1967年、アニメ)、『絞死刑 (映画)』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など、政治的な色合いを強く持つと共に、ジャーナリスティックな側面をも併せ持った作品を矢継ぎ早に制作、公開し国内外の認知度も高くなった。
『夏の妹』(1972年)を最後に創造社は解散し、『愛のコリーダ』(1976年)の公開までは映画制作資金を稼ぐためのテレビ出演などの活動の日々が続く。
『愛のコリーダ』により国際的な評価を確固たるものにしてからは、『愛の亡霊』(1978年)、『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『マックス、モン・アムール』(1986年)など外国資本もしくは海外で公開されることを前提とされる作品が中心となっていった。

このような活動から海外における知名度は高く、アレクサンドル・ソクーロフ、テオ・アンゲロプロス、マーティン・スコセッシ、チェン・カイコーなど大島を敬愛する著名な映画監督・評論家は少なからずいる。
ジャン=リュック・ゴダールが『映画史』において取り上げた日本人監督は溝口健二、小津安二郎、勅使河原宏と大島渚の四人だった。

1996年1月下旬に約10年ぶりの映画製作発表をしてまもなく、翌2月下旬渡航先のロンドンで脳出血に見舞われた。
その後、三年にわたるリハビリが功を奏し復帰作『御法度 (映画)』(1999年)の公開を果たすが、カンヌ映画祭では賞を得ることは出来なかった。
その理由として、新選組という設定は日本人には忠臣蔵や水戸黄門と同じく馴染み深いものであり、登場人物の性格や行動様式を周知の事実としてストーリーを展開しても違和感がなかった。
しかし、ヨーロッパ人には舞台設定そのものに関する基礎知識がなく、そもそも理解の段階に至らなかったという点が考えられる。
これは大島が日本社会に身をおいていたがゆえに気付かなかった盲点であると言える。

なお、『御法度』にはビートたけしと崔洋一、2人の映画監督が俳優として出演しており、二人に撮影現場でのサポート役を託していたとされる。

2001年6月芸術文化勲章(オフィシエ)を受章。
その後再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念するため実質的に監督業から退いている。

2006年に映画の著作権問題を問う映画『映画監督って何だ!』に登場し、エンディングシーンで強烈な存在感を示した。
また同年2月26日この作品披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がる。
公の場に姿を現すのは実に4年8ヶ月ぶりであった。

2008年夏、「テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの~大島渚・小山明子の絆~」(テレビ朝日、7月28日放映)、「田原総一朗ドキュメンタリースペシャル『忘れても、いっしょ・・・』」(テレビ朝日、8月17日放映)にて、聖テレジア病院(神奈川県鎌倉市)で言語障害・右半身麻痺を克服すべくリハビリに励む姿がオンエアされた。

その他

長男の大島武は東京工芸大学芸術学部准教授。

次男の大島新はフジテレビ退社後、フリーのディレクターに転身。
「情熱大陸」では見城徹篇や秋元康篇など10本以上を担当。
2007年12月にデビュー作のドキュメンタリー映画『シアトリカル~唐十郎と劇団唐組の記録』が公開。

[English Translation]