大石信興 (OISHI Nobuoki)

大石 信興(おおいし のぶおき、延宝2年(1674年) - 寛保元年9月6日 (旧暦)(1741年10月15日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂藩主浅野内匠頭の家臣。
47士の1人である大石信清の兄にあたる。
通称は孫四郎(まごしろう)、のち帯刀(たてわき)。
名ははじめ信明(のぶあき)。
そのあと信興と名を変えたが、信興ではなく信豊(のぶとよ)だとも言われる。

延宝2年(1674年)赤穂浅野家家臣の大石信澄(知行450石)の長男として誕生。
母は小田貞守の娘。
幼名は右衛門太郎。
元禄2年(1689年)12月、父の死去により家督を相続。
孫四郎の通称も受け継いだ。
また450石のうち150石を弟瀬左衛門信清に分け与えている。
赤穂藩改易後、弟とともに大石内蔵助の盟約に名を連ねた。
しかし、元禄15年(1702年)閏8月の神文返しの際に12日付けで脱盟した。
この脱盟について自分か瀬左衛門のどちらかは生母の面倒を見ねばならないということで瀬左衛門とくじでどちらが脱盟するか決めたという逸話がある。

その後は母とともに讃岐国高松へ住み、やがて関白近衛家熙に仕えた。
母も近衛家に出仕し、外山局と称した。
この大石孫四郎は、討ち入りに加わらなかった「不忠臣」で恐らく唯一再仕官が叶った人物である。
従兄弟の大石良穀も近衛家に仕えていたので、その縁故を頼ったものかもしれない。
その後、一時期浪人した。
しかし、天皇家に直接召抱えられて廷臣となり、禁裏御使番などをつとめている。
元文2年7月に隠居し、道入と称した。
寛保元年9月6日に死去。
享年68。
紫野瑞光院に葬られた。
戒名は一翁入道居士。
家督は次男大石良実が継いだ。

[English Translation]