大蔵春実 (OKURA no Haruzane)

大蔵 春実(おおくら の はるざね、生没年不詳)は、平安時代中期10世紀頃の貴族。
父は民部丞大蔵常直、母は右兵衛督藤原敏行の娘。
妻は参議小野好古の娘。

大蔵氏は前漢初代皇帝「高祖(劉邦)」の流れを汲む後漢の霊帝 (漢)を祖とするという。
後漢が滅び、三国時代 中国)の到来と共に国内は乱れた。
霊帝の曾孫の阿智王(阿智使主)の一族は日本へ帰化、播磨国大蔵谷(現神戸市西区(神戸市)大蔵谷)に館を構える。
阿智王の子の阿多倍は内大臣に任され、斎明天皇の皇女を妻にしたとされる。
また播磨国に宮造りをする。
(当時これを御所殿といい、それに従事することは朝廷から特別な待遇を受けている一門の証であった)。
阿智使主の子孫である大蔵広隅は、坂上氏と同じく東漢氏の一族であった。
大蔵広隅の8代後が大蔵春実である。

939年(天慶2年)瀬戸内海にて承平天慶の乱(藤原純友の乱)が発生した。
その鎮圧のため派遣された追捕山陽南海両道凶賊使の「主典」(さかん・第四等官)として活躍。
941年(天慶4年)5月博多津において藤原純友軍を撃退。
その功績により従五位下対馬守・大宰大監となる。
大宰府の第三等官となり、管内の軍事警察を管轄した。

960年(天徳 (日本)4年)平将門の残党が入京するとの噂がおこった。
その際、蔵人所の命により、前記追捕使、大宰府の次官であった源経基(清和源氏初代)の子、源満仲とともに武士団を率い都を警護する。
官職に因らず武士団を用いた最初の例とされる。

子孫は九州に土着し、大宰府の「府官」を世襲する。

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