姉小路頼綱 (ANEGAKOJI Yoritsuna)

姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな、天文 (元号)9年(1540年) - 天正15年(1587年))は戦国時代 (日本)、安土桃山時代の武将、大名。
姉小路良頼の長男。
妻は斎藤道三の娘。
別名、三木 自綱(みつぎこれつな)。
他に光頼、自頼。
飛騨国姉小路氏の当主。
左衛門佐、侍従、太宰大弐、左京大夫、大和守、大納言(自称)。

概略
永禄2年(1559年)、父の命を受けて国司である姉小路家の名跡を継承する。
元亀3年(1572年)、上杉謙信の要請に応じて越中国に出兵したが、その直後に父・良頼が死んだため、家督を継承した。

天正6年(1578年)、謙信が死去すると織田信長と手を結び、本拠を飛騨松倉城に移して飛騨の支配体制を固める。
上杉氏から織田氏への鞍替えには反対する傘下の国人衆も多く、頼綱はこれをことごとく攻め滅ぼすという政策を取った。
そのため、本家の領地は増えたものの姉小路氏を支援する勢力は減り、結果的に勢力を弱めることになる。
また天正7年(1579年)には長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ殺害した(天正11年(1583年)のこととする説もある)。
織田傘下では佐々成政の越中侵攻に協力した。

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で死去すると、かねてから敵対関係にあった江馬輝盛や小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱を討って、飛騨を完全に制圧した。
その後は柴田勝家や佐々成政と手を結んで豊臣秀吉と対立する。
このため、秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を招き、自身の籠もった飛騨高堂城を攻められて降伏した(富山の役)。
これにより戦国大名としての姉小路氏は完全に滅亡する。
子の姉小路秀綱など一族の多くは自害したが、頼綱は助命されて京都に幽閉され、天正15年(1587年)に同地で没した。

末子三木近綱は徳川氏の旗本となったという。

[English Translation]