宮部継潤 (MIYABE Keijun)

宮部 継潤(みやべ けいじゅん、享禄元年(1528年)? - 慶長4年3月25日 (旧暦)(1599年4月20日))は、戦国時代 (日本)の武将。
官途は中務卿。
通称は善祥坊。
実父土肥真舜。
養父善祥坊清潤。
宮部長房の父。

近江国浅井郡宮部村の小豪族の出自。
善祥坊清潤の養子となり比叡山で修行をした後比叡山の僧となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。
武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍したが、元亀2年(1571年)10月に豊臣秀吉の調略に応じてその与力となった。
寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け継潤は負傷している。

居城である宮部城は、小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573年)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。
この時期に秀吉の甥(後の豊臣秀次)を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の元に返還されている。

その後は秀吉の与力につけられて中国遠征などに従い、1580年頃には、山名氏討伐後に但馬豊岡二万石を有している。

鳥取城攻めでは吉川元春の援軍を撃退し続けるという最も困難かつ重要な任務をこなした。
天正10年(1582年)に戦功が認められ、因幡国鳥取城の城代となった。
また、本能寺の変時、鳥取城は毛利家に攻撃される可能性が最も高い拠点であったが(山陽側は備中高松城の戦いの影響で攻めることが不可能だった)、その拠点を任され続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。

本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。
九州征伐にも参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退している。
天正18年(1590年)の小田原の役にも参陣。
文禄2年(1593年)には、大友義統が改易された、豊後国の検地を山口宗永と共に担当、また同年因幡国巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開き、秀吉から銀山経営を任されている。
文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも参加。
慶長元年(1596年)、高齢を理由に子の長房に家督を譲って隠居した。
秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めたと言われている。

1599年閏3月25日死去。
享年は64、71など諸説ある。

[English Translation]