寂照 (Jakusho)

寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 長元7年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の僧・文人。
参議大江斉光の子。
俗名は大江定基(おおえ の さだもと)。
三河入道・三河聖・円通大師とも称される。

経歴

文章・和歌に秀で図書頭・三河国国司を歴任、従五位に至る。

三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行った。
だが、任国でこの女性が亡くなったことから、寂心(=出家後の慶滋保胤)のもとで出家し延暦寺三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。
その後延暦寺横川で源信_(僧侶)に天台教学を、仁海に密教を学んだ。

宋 (王朝)に渡海し、蘇州市の僧録司に任じられ真宗 (宋)(しんそう)から紫衣と円通大師の号を賜った。
また、天台山知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた。
日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ちょうい)の要請により、蘇州市呉門寺にとどまった。
その後、日本に帰国する事がないまま杭州市で没した。

子孫

子に香基がいたとされる。
また、定基の後裔良道は近江国山村郷に住み山村氏を称した。

説話

定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなった際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに、女の亡骸を抱いて臥していた。
数日後、定基が女の口を吸うと、ひどい死臭がした。
さすが定基も耐えられず、女に対して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬した。
その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」と、発心を起こしたという。

出家した寂照が、都で乞食をしていたところ、離縁した妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ」と辱めを受けた。
しかし、逆に寂照は「この徳により必ず仏心を得られるであろう」と手をすりあわせて喜んだという。

[English Translation]