山名氏之 (YAMANA Ujiyuki)

山名 氏之(やまな うじゆき、生没年不詳)は室町時代の伯耆国守護。
父は山名師義、兄に山名義幸、弟に山名時熙、山名満幸、子に山名熙之がいる。
通称・隠岐二郎、官位は右馬頭、大膳大夫。
なお、本項では「氏之」の表記に統一する。
これに関する詳細は後述するのでそれを参照されたい。

経歴
山名師義の二男として生まれた氏之は兄の山名義幸が家督を継がなかったため、康応元年(1389年)に伯耆国・隠岐国2ヵ国の守護職を継承した。
明徳元年(1390年)、山名家中の家督争いに介入した足利義満によって氏之・時熙兄弟に討伐令が下ると、氏之は山名満幸によって本拠地の伯耆国に攻め込まれ没落し、備後国へ逃れた。
その翌年の明徳2年(1391年)、京都市へ密かに戻った氏之らは清水寺にて足利義満と対面し赦免され、明徳の乱で山名満幸が没落すると再び伯耆守護職に就任した。
明徳4年(1393年)1月4日 (旧暦)に伯耆守護職に就いた氏之はこの後、応永年間の末まで約30年間在職した。
この間に発給された文書の多くは今もなお現存しており、氏之は守護代に佐々木氏や田原清高などを任命して分国の統治を行った。
晩年の氏之は法名の「源賛」を名乗るようになり、応永31年(1424年)10月23日 (旧暦)に久米郡定光寺に「伯耆国久米郡在庁富成跡」を寄進したのを最後に没したものと見られる。
ちなみに氏之は子息の山名熙之には家督を譲らず、孫の山名教之に直接譲ったことが明らかになっている。

「氏之」の表記について
「氏之」はよく「氏幸」とも表記されることがあるが、当時の文書や史料には「氏之」と記されている。
例として挙げるならば応永4年(1397年)の『三宝院文書』所収「山名氏之遵行状」などがあり、時代は下るが天文 (元号)18年(1549年)の成立とされる『光源院文書』の「伯州山名代々次第」にも「大膳大夫氏之」と記されている。
加えて氏之以降の伯耆山名一族が「之」を通し字としていることも踏まえると「氏之」の表記の方が本来の姿に近いものと思われる。

[English Translation]