山岡景友 (YAMAOKA Kagetomo)

山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代の武将。
六角氏旧臣。近世大名。常陸古渡藩初代藩主。
山岡景隆および山岡景猶の実弟である。

天文9年(1540年)、六角氏家臣の山岡景之の4男として生まれる。
山岡氏は守護六角氏の有力家臣で、青地氏らとともに六角軍の軍事の中枢を担っていた。
はじめ山岡家の領地内にあった三井寺光浄院の僧侶となり、暹慶(せんけい)と号していたが将軍義昭の命で還俗して景友と名乗る。

同じく最初は僧侶であった第15代将軍・足利義昭により引き立てられ室町幕府より山城国半国の守護に任じられた。

信長包囲網が敷かれ信長と義昭の戦いが始まると義昭に従って信長と敵対し、近江石山城に立て籠もって抗戦した。
(この時他の兄弟は義昭を裏切り信長方に付いた)

元亀4年(1573年)2月26日に信長の部将である柴田勝家に攻められたが、信長方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城した。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去すると、兄と共に明智光秀軍の近江国進撃を妨害した。
兄景隆たちが柴田勝家に付き羽柴秀吉により領地没収となるなどしたため、山岡氏家督となる。
兄が持っていた甲賀における権利の一部を継承する。
信長の死後、天下人に台頭した豊臣秀吉の家臣となり領地を安堵され、秀吉の信頼をうけ御伽衆にも加えられた。
領地の関係で大津城主の京極高次と親しかった。

後に再び剃髪して道阿弥と号した。
天正20年(1592年)の文禄の役では秀吉に従って肥前国名護屋城に在陣した。

秀吉没後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国長島城の守備や伊勢桑名城・近江国水口城を攻略に功績を挙げた。
この功績により、戦後に家康より近江国内で9000石を与えられ、同時に甲賀組を与えられた。
また高野山に籠った京極高次の説得時にも活躍した。

慶長8年(1603年)には石高を加増されて常陸古渡1万石(常陸古渡藩)の大名となる。

室町幕府の奉公衆と親しく、政所の政所代を代々勤めていた蜷川氏の蜷川親長とも親交があった。

慶長8年(1603年)12月20日に死去。
享年64。
跡を甥(兄・景隆の7男)の山岡景以が継いだ。

[English Translation]