山岡景猶 (YAMAOKA Kagenao)

山岡 景猶(やまおか かげなお)は、戦国時代 (日本)の武将。
山岡景隆の実弟である。

山岡景之の3男として生まれる。
六角氏および足利義輝に仕えたが、織田信長が上洛して勢力を拡大すると信長の家臣である明智光秀に属した。

元亀元年(1570年)に近江国内において2500石を与えられる。
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち (1571年)で信長は三井寺山内にあった景猶の屋敷より指揮した。

天正元年(1573年)7月、足利義昭が信長に対して挙兵すると、景猶は義昭の誘いを拒絶して、填島城攻めで戦功を挙げた。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、兄と共に柴田勝家に味方した。
このため賤ヶ岳の戦いの後、兄と共に改易された。
後に加藤清正に仕えて天正16年(1588年)の清正の肥後国入国の際に起こった天草一揆の鎮圧で武功を挙げた。

秀吉没後は徳川家康に接近し、家康の次男・結城秀康に仕えた。
慶長4年(1599年)に死去。

[English Translation]