岡田以蔵 (OKADA Izo)

岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年(1838年) - 慶応元年閏5月11日 (旧暦)(1865年6月3日))は、土佐国の郷士で土佐勤王党に加わった幕末四大人斬りの一人。
「人斬り以蔵」と呼ばれた。
諱は宜振(よしふる)。

生涯

香美郡岩村に二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として生まれる。
弟に同じく勤皇党に加わった岡田啓吉がいる。
嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。

武市瑞山(半平太)に師事し小野派一刀流を学ぶ。
武市の門を叩く前にも、我流ながらかなりの剣術の腕前であった。
武市に従い江戸に出て、鏡心明智流を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。

万延元年(1860年)、武市に従って中国、九州で武術修行する。
その途中、豊後国岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。
その後、武市の結成した土佐勤王党に加盟。
しかし、なぜか後に名簿から削られている。
武市の意向なのか分からないが、暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出ている。
武市が、教養の無い以蔵を、ただ単に暗殺の道具として使ったともいわれている。

土佐藩下目付けの井上佐一郎をはじめ、同志の本間精一郎や池内大学、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人 村山加寿江の子多田帯刀などを天誅と称して暗殺(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。
薩摩国の田中新兵衛と共に「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられた。

八月十八日の政変後、勤王党は失速。
武市が土佐に戻ると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。
しかし元治元年(1864年)6月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。
土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい拷問を受けた。
以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年(1865年)5月11日に打ち首、晒し首となった。
辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。

墓所は高知県高知市薊野駅近郊の山中にある累代墓地。
俗名・岡田宣振として埋葬されている。

人物

岡田以蔵の事績については同時代資料も本人の書簡なども乏しいが、その性格・性質についてはいくつかの資料によって伺うことが出来る。

『土佐偉人伝』(寺石正路)によれば、「性質は剛勇で武技を好み、非常に逞しい体躯を持った巨漢」であった。
もっとも同書は皇国史観に伴って幕末勤皇志士が持てはやされた大正10年(1921年)に記された本であり、いささか美化された感もあるとされる。

最近の研究では実際には性格は粗く酒色を好んだとされ、殊に晩年は土佐勤王党の仲間からさえ疎まれていたようである。
以蔵が捕縛されたと知った武市半平太は、実家への手紙で「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と、以蔵に良い感情を持っていなかったことが伺われる。
以蔵はまた、家が七軒町にあったことから「七以」と軽蔑的に呼ばれていたことも、田内恵吉(武市の実弟)などの書簡として伝えられる。

一説によれば、以蔵の捕縛を知った武市は彼の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたとさえ言われている。
これは小説をはじめ広く知られるエピソードで、それらによればこの際、武市は性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配したとか、以蔵が軽輩故に他の同士より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、また、毒を送られた以蔵はそれを(毒とは知らずに)服んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと様々に解釈されている。

こうした点が、武市から見た以蔵が「ただの暗殺の道具」に過ぎなかったのではないか、とされる所以である。
以蔵が晩年、武市らから冷遇されていた理由について諸書の記述によれば、他の同志より身分が低く教養が無いことによる差別的感情、彼が手がけた数々の暗殺が露見することにより他の同志に累が及ぶ危機感、彼が自刃してしまえばその露見が防げるにも拘らず彼自身がそれを行わなかったことに対する焦燥感や怒り、さらに“尊王攘夷・倒幕”を旨とする土佐勤王党に属しながら“開国派・幕臣”の勝海舟らの護衛を行うなどした(後述)ことにより“剣術こそ強いが確固たる思想・信念を持たぬ者”として軽蔑されたこと、などが原因ではないかと考えられている。

後に、岡田以蔵が所有していたとされるピストルが発見され、2006年7月1日より8月31日にかけ、高知県立坂本龍馬記念館の催し『それぞれの幕末‐龍馬・半平太・そして以蔵』にて展覧された。
同館の説明によればこれはフランス製で、勝海舟より贈られた物だという。
ちなみに「ピストル」とは公開の折に称されたものだが、厳密には拳銃である。
なお、当該短銃は個人所有の物を借用し公開された。

また、これとは別に中浜万次郎が護衛を受けた際に自らの短銃を以蔵に託そうとしたが受け取らなかったとの伝承もある。
ただ、以蔵がこれら短銃を使用した記録は無く、詳細は不明である。

岡田以蔵が関わったとされる天誅事件

井上佐一郎暗殺(文久2年8月2日)

井上佐一郎(いのうえ さいちろう)は土佐藩の下横目(下級警官)で、同年4月8日の吉田東洋暗殺事件を捜査していた。
これを危険と見た勤王党では、まず井上を料亭「大与(大與・だいよ)」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上にて、以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で、身柄拘束のうえ絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てた。
この事件の際、井上佐一郎と同行していて難を逃れた同僚の岩崎弥太郎は後の三菱財閥の創始者となった。
以蔵らが最終的に捕縛された際、この事件についての取調べもあったといい、実行犯の1人である森田金三郎だけが黙秘を貫いたため生き残って戊辰戦争に参戦している。
森田は後にこれを五十嵐敬之に話し、五十嵐によって『井上佐一郎暗殺一件』なる記録が残された。

本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日)

本間精一郎(ほんま せいいちろう)は越後国出身の勤皇の志士の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた。
そこへ久邇宮朝彦親王と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。
『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された。
但し異説もあり、屋内にいた人物が本間と刺客が刀で打ち合う「炭をぶつけ合うような」音を聞いた、という証言もある。
本間も殺害されたあと、高瀬川 (京都府)へと投げ込まれた。
このときの実行犯は以蔵をはじめ、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・広瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の人斬りこと田中新兵衛であった。

宇郷玄蕃頭(文久2年閏8月22日)

宇郷重国(うごう げんばのかみ)は先の関白九条尚忠の諸太夫であり、安政の大獄の際、島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていた。
島田左近暗殺(同年7月21日)以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、この日は九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を岡田以蔵・岡本八之助・村田忠三郎及び肥後国の堤松左衛門に急襲された。
飛び起きて逃げようとしたところを以蔵に斬り倒され、子息も堤によって殺害された。
宇郷の首は加茂川河岸に槍に刺し斬奸状と共に晒された。
以上は『官武通記』による記録であるが、実行犯については異説があり、以蔵の加担を疑問視する向きもある。

猿の文吉殺害(文久2年閏8月30日)

猿の文吉(ましらのぶんきち。
「目明し文吉」とも)は、安政の大獄時、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引である。
当然、志士たちから深い恨みを買っていた。
岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、「斬るのは刀の穢れになる」として細引で絞殺した。
文吉は島田の高利貸しの手伝いもしており、民衆からも嫌われていたため、裸に剥かれ河原の杭に縛り付け、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され晒された遺体には投石する者もあったという。
なお、この時高札に「イヌ」と書いたため、ここから「○○の手先」の蔑称としての「○○の犬」という表現が生まれたという説がある。

四与力殺害(文久2年9月23日)

渡辺金三郎(わたなべ きんざぶろう)・森孫六(もり まごろく)・大河原重蔵(おおがわら じゅうぞう)・上田助之丞(うえだ すけのじょう)の4人はいずれも京都町奉行所与力で、やはり安政の大獄で長野主膳・島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任するところであった。
彼らが石部宿まで来た夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲い、人々が騒然とする中、これら与力4名が殺害された。
斬奸状には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅であると書かれていた。
この襲撃には土佐・長州・薩摩藩・久留米藩の4藩から複数の志士が参加していたとされる。
武市半平太が書き遺した『在京日記』に土佐からの参加者12名が記されているが、以蔵はその中に入っていない。
しかし一般には、この襲撃に以蔵も加わっていたとする見方もある。

平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(文久2年10月9日)

平野屋寿三郎(ひらのや じゅさぶろう?)・煎餅屋半兵衛(せんべいや はんべえ?)は、共に商人ながらこの年5月の勅使・大原重徳東下の際に士分となり供をしていたが、収賄や横領などを行ったため評判が悪かった。
それがまた、この月の勅使に随行するというので、朝廷の威信失墜を懸念した長州藩・土佐藩両藩の志士が団結して天誅を加えることとした。
土佐からは岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしたが、家族の助命嘆願もあり町人でもあることから殺すことはせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにした。

多田帯刀暗殺(文久2年11月15日)

多田帯刀(ただ たてわき)は、長野主膳の妾・村山加寿江(むらやま かずえ、可寿江とも。
村山たか、とする資料もある)の子で、鹿苑寺(金閣寺)の寺侍であったが、やはり長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされた。
14日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を浪士らが襲撃、寝ていた加寿江を引き出して三条大橋の袂に生き晒しにし、翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行の上、殺害。
首は粟田口に晒した。
加寿江は、三日三晩生き晒しにされたともいう。
この襲撃には合計20名が参加し、長州の楢崎八十槌ら、土佐の小畑孫三郎・河野万寿弥・依岡珍麿・千屋寅之助らと共に、以蔵も加わっていたとされる。
このうち、依岡は大正年間まで存命して、この事件を語り遺している。

池内大学暗殺(文久3年1月22日)

池内大学(いけうち だいがく)は、元々は尊皇攘夷派の町人儒学者であった。
条約勅許問題や将軍後継問題などで策謀を巡らせたため、安政の大獄において幕府からの厳しい追及を受けたが、観念して自首したために比較的軽い罪になった。
これが尊攘派志士の目に「幕府に寝返った」と映り、狙われた。
大学は変名のうえ大阪に潜伏していたが、おりしも大阪に来ていた山内容堂の酒宴に招かれ、その帰りを襲われた。
首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛・中山忠能の屋敷に投げ込まれ、両公卿の辞職を招くこととなった。
この事件においては以蔵の名前だけが挙げられ、他に数名居たとされる正確な人数や構成は伝わっていない。

暗殺(文久3年1月29日)

賀川肇(かがわ はじめ)は、公家千種有文の家臣で、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わったことで狙われた。
浪士が自宅に踏み込んできたとき賀川は二階へと逃げ込み隠れていたが、運悪く帰宅した幼い子どもが浪士たちに捕われ厳しい詰問を受けるのを見て自ら階下へ降りたところを斬首された。
この事件については一般に薩摩の田中新兵衛の犯行であるとされるが、以蔵も田中と共に加わっていたとする説もある。
また一方では、姫路藩の萩原虎六らによるとする異説もある。

以上9件について、岡田以蔵が関わったとする説が存在する。
しかしながら研究者の間では、「この全てについて必ずしも関与していないのではないか」とする説も存在する。
一方で、「暗殺が横行した文久2年~元治元年の間には未だに誰の手によるものか判らない(斬奸状により、尊王攘夷派であることだけ判っているものもある)暗殺事件も多く、そうした中にも以蔵が関わった事件があるのではないか」との見方もある。

岡田以蔵による要人護衛

勝海舟(文久三年)

勝海舟の自伝「氷川清話」によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。
3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。
その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。
先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。
流石に勝も返す言葉が無かったらしく、「これにはおれも一言もなかったよ」と言っている。

ジョン万次郎

中浜家の家伝(『中浜万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』(中浜博、2005年))によると、岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っていた。
勝海舟が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。
万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、以蔵は伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。
残った2人は逃亡した。

[English Translation]