川上忠兄 (KAWAKAMI Tadae)

川上 忠兄(かわかみ ただえ、永禄2年(1559年) - 元和 (日本)8年3月23日 (旧暦)(1622年5月3日))は戦国時代 (日本)から江戸時代の武将。
島津氏の家臣。
四郎兵衛。
久三。
大炊助。
春糠。
精糠。
川上忠智の次男。
子は川上佐渡、川上五郎兵衛。

生涯

天正4年(1576年)8月28日、伊東氏の高原城を落とした戦勝祝賀が小林城で行われた数日後に、18歳にして小林の地頭職に抜擢される。
およそ2年間務め上げた後は島津義弘の居城・飯野城へ帰還したようである。

天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐が行われた際は、忠兄は豊臣秀長軍を迎撃すべく小林城に入っている。

文禄元年(1592年)からの「朝鮮の役」に従軍、弟の川上久智と共に戦功をあげた。
慶長4年(1599年)の「庄内の乱」の際は疱瘡を患っていたために出陣できなかった。
しかし鎌田政近の依頼により相談役となった。

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」にも従軍。
敵中突破して逃げる際に忠兄の被官である柏木源藤は、井伊直政を銃撃、落馬させている。

その後は義弘の命で、薩摩国に帰還する島津勢と別れて徳川家康の元へ使者として赴いた。
そこで島津が西軍に味方した経緯を堂々と話した。
その際に、自分の甲冑を残して退去する。
徳川家臣はそれを見て「慌てる余りに甲冑を忘れていった」と罵り笑った。
しかし家康はこれを制して述べたという。
「戦陣騒忙危難の間情偽弁じ難い。
果たして使命を全うしたか否か疑われぬよう、証拠として甲冑を残したのだ。
天晴れ軍事に練達の者である」
無事に任務は果たしたが、島津勢の一行には遅れたため近衛家を頼って薩摩に帰還する。
忠兄はこの後に義弘の家老に昇進する。

元和8年3月23日、姶良町帖佐の別荘にて病没。
法名は「浄翁元清居士」。
墓は帖佐竜ヶ水の心岳寺にある。

また、嫡子の川上佐渡はキリシタンであったため火罪に処された。
しかし忠兄の今までの功を考慮し次男の五郎兵衛への家督相続が許され忠兄流川上家は断絶を免れている。

[English Translation]