川島雄三 (KAWASHIMA Yuzo)

川島 雄三(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 - 1963年6月11日)は、日本の映画監督。

生涯

青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)生まれ。

青森県立野辺地中学校(現青森県立野辺地高等学校)卒業。
明治大学専門部文芸科卒業後、松竹大船監督部に入社。
島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村弘将、木下惠介らの助監督を経て、1944年、監督昇進試験主席合格ののち織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビュー。

戦後はプログラム・ピクチュアを量産する。
1954年、日活へ移籍。
『洲崎パラダイス 赤信号』『幕末太陽傳』などの傑作を残す。
1957年、東宝系の東京映画へ移籍。
かたわら大映でメガホンを取った『女は二度生まれる』『雁の寺』『しとやかな獣』の三作品で若尾文子と組み、後年高い評価を得る作品を残す。

趣味はカメラで映画関係者、男優、女優らとミノックスの愛好会「ミノムシ・クラブ」を主宰。
監督昇進の頃から、筋萎縮性側索硬化症に冒され歩行等に障害を有していた。
遺作『イチかバチか』公開の5日前に芝の日活アパートの自室にて急死。
直接の死因は肺性心。
享年45。
墓所はむつ市新町の徳玄寺。
監督作品51本、待機作(急逝により未完)3本。

その他

川島と同じ大正7年戊午生まれの西河克己、小林桂三郎、柳沢類寿と共に『泥馬クラブ』という小冊子を作成。
松竹首脳、組合幹部等をユーモアに包んで皮肉り好評を得るが、会社から圧力をうけ四号で終了。

映画監督今村昌平は愛弟子であり、脚本家でもある。
ただし、今村昌平本人は後年、脚本家としてクレジットされているが、採用されたのはアイデアのほんの一部だと語っている。

『幕末太陽伝』のラストシーンは、主人公が江戸時代のセットから外に出て、撮影所内を超えて、さらに現在の町中に走り出すというのが原案。
この設定以外ではやらないと言い出すが、フランキー堺やスタッフなどから、意味がわからない、実際には無理、と説得されて、現存のラストシーンとなった。
ただ、フランキー堺は後に、後から考えると監督の言う通りにしておけば良かったと語っている。

生前、「この種の病気を抱えながら有名人になったのは、オレとフランクリン・ルーズベルトくらいだ」と自嘲していた。

当時の映画監督の中ではかなりダンディーな服装をしていた。
腕時計のベルトもその日の服の色に合わせて決めていたという。

作品の出来は玉石混交であるが、「映画作りは、ひとえに生活のため」と割り切っていた。

[English Translation]