川路利良 (KAWAJI Toshiyoshi)

川路 利良(かわじ としよし、1834年6月17日(天保5年5月11日 (旧暦)) - 1879年(明治12年)10月13日)は、江戸時代後期の幕末から明治時代初期の警察官僚・陸軍軍人。

仮名 (通称)は正之進。
雅号は竜泉。
名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。

階級は警視総監、少将(軍職を兼ねる)、位階勲等は正五位勲二等。
欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。

生涯
薩摩藩与力(准士分)、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島市近在の比志島村(現在の鹿児島市皆与志町比志島地区)に生まれる。
元治元年(1864年)の禁門の変で戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。
明治維新後は警視庁大警視(のちの警視総監)となり、警察制度の確立に努めた。
明治5年(1872年)には渡欧して各国の警察制度を視察し、帰国後はジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考にした警視庁の創設に努めた。

警察と警察官の在り方を示した川路の語録は後に『警察手眼』(けいさつしゅげん)として編纂され、警察精神の基本論語として今も警察官に広く語り継がれる。

西郷隆盛らの下野後は内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
西南戦争が起こる直前にも、西郷や不平士族の動向を、帰省を口実に密偵を現地に送り込み内偵と西郷側の内部分裂を図るなど、川路の主たる実力は一般的な警察力と言うよりは、専ら忍者の類を使用した情報収集や攪乱・乖離作戦の戦術に長けていた。

明治10年(1877年)1月、政府が薩摩の武器火薬を大阪へ移動を開始したことに激昴した西郷の私学校生徒らが暴動を起こし、これを発端に西南戦争が勃発。
2月には、薩摩軍は川路が送り込んでいた密偵全員を捉えて拷問に近い取り調べを加え、川路が西郷隆盛を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られた。
そのため、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。

開戦後、川路は警視庁警視官で編成された別働第3旅団の旅団長(陸軍少将)として九州を転戦した。
激戦となった3月の田原坂の戦いでは警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して薩摩軍を退け、5月には大口攻略戦に参加した。
その後、6月には宮之城で激戦の末、薩摩軍を退けて進軍するが、その後旅団長職を免じられ東京へ戻る。

終戦後の明治11年(1878年)3月黒田清隆の妻が病死した際、黒田が酔って妻を殺したとの噂が流れたたため、川路が墓を開け、病死であることを確認した。
これについては、川路も薩摩出身であり、黒田をかばったという見方が当時からあり、同年5月に発生する、川路の庇護者であった大久保利通暗殺の遠因とも言われる。

明治12年(1879年)1月、海外警察視察のために東京を発つ。
しかし船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまう。
咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受けた。
転地療養も行ったが病状は良くならなかった。
同年8月24日郵船「ヤンセー」号に搭乗し、10月8日帰国。
しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日にこの世を去る。
享年46。
関西の政商である藤田財閥が汚職の捜査を恐れ毒殺したという噂も立った。

日本の近代警察制度の基礎を造った人物として評価されているが、「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として現在も郷土鹿児島では人気がない。
平成11年(1999年)に当時の小野次郎 (政治家)本部長らの提唱で鹿児島県警察本部(鹿児島市)前に銅像が設置されるなど、ようやく地元でも再評価の段階に入りつつある。

現在の警視庁下谷警察署のあたりが川路邸であった。
現在は同署の敷地内に邸宅跡の石碑が建っている。

また、鹿児島市皆与志町の生家近くのバス停は彼に因み「大警視」と名付けられている。
生誕の地には記念碑が、鹿児島県警本部前と川路が率いた別働第3旅団の激戦地である鹿児島県霧島市(旧横川町)内には銅像が建っているほか、警視庁警察学校には彫塑家・北村西望の作となる立像が建てられている。

その功績を称えられ、明治18年(1885年)に弥生神社(現 弥生慰霊堂)に祀られた。

後に福岡県、岐阜県県知事等を歴任した川路利恭は、川路の死後、養子となった夫人の甥。

エピソード

明治5年(1872年)の初めての渡欧の際、マルセイユからパリへ向かう列車内で便意を催したもののトイレに窮し、やむを得ず座席で日本から持参していた新聞の上に排便、その大便を新聞紙に包んで走行中の列車の窓から投げ捨てたところ、運悪くそれが保線夫に当たってしまった。
その保線夫が新聞に包まれた大便を地元警察に持ち込んだことから、「日本人が大便を投げ捨てた」と地元紙に報じられてしまった。
この"大便放擲事件"は、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の冒頭部分ほか、山田風太郎の「巴里に雪のふるごとく(『明治波濤歌」所収)』にも描かれている。

大警視就任後も稼業終了後ほぼ毎日自ら、東京中の警察署、派出所を巡視して周った。

川路の着用した制服、サーベルの実物は現在警察博物館に展示されている。

[English Translation]