平康頼 (TAIRA no Yasuyori)

平 康頼(たいら の やすより、久安2年(1146年)? - 承久2年(1220年))は、平安時代の貴族。
左大史・中原頼季(なかはらのよりすえ)の子。
検非違使兼衛門府。
平判官入道と称された。

経歴

明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。
平家一門の中で有力な地位にある平保盛という人物が居たが、保盛と中原家とは密接な関係にあったようで、康頼は十代で保盛の家人となっている。
保盛は長寛元年正月24日付で、越前の国司に任ぜられており、18歳の康頼も越前に派遣されて、この頃に主君から平の姓を賜与を受けたと思われる。
保盛は仁安元年12月30日付で、尾張の国司に転任し、康頼を目代に昇格して派遣した。

この尾張国知多郡野間の荘には源義朝(源頼朝の父)の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。
義朝は平治の乱に破れ東国を目指して落ち延びる途中、相伝の家人長田父子に入浴を勧められて油断させられ湯殿で非業の死をとげる。
康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護に水田三十町歩を寄進した。

当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。
検非違使兼左衛門大尉に任じられ、平判官と称した。

この後には、鹿ケ谷事件で藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議に参加。
その酒席で瓶子(へいし)が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んでいた。
密告によりことが漏れて康頼も捕縛される。
俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。
(鹿ケ谷の陰謀)。

『平家物語』によると、信仰心の厚かった康頼は流罪にあたり出家入道し性照と号した。
京を懐かしむ日々の中で成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すこと思い立つ。
一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。
治承2年(1178年)に赦免船が来て成経と康頼だけは赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった。

帰京後は伯母が尼となって身を寄せる東山の双林寺で仏教説話集『宝物集』を編集執筆する。
文治2年(1186年)には源頼朝は、父義朝の墓を弔った平康頼を阿波国麻殖保の保司の職に任命した。
康頼はすでに41歳になっていた。

康頼は保司庁、鼓楼、六坊寺を建て、熊野神社を勧請し、鬼界山補陀らく寺を建てたがその名が示す通り鬼界が島の俊寛を弔うものであり、又、慈眼山玉林寺を建て源平の戦いで死んだ者を源平の区別無く供養したと云われる。

康頼は承久2年(1220年)頃、75歳で没し、一町地と呼ばれる所で火葬される。
康頼神社の脇に墓があり、遺言で鶴田氏が康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めた。
遺骨は分骨されて、京都東山の双林寺にも埋葬された。
康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の三人のものという。
清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。
有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている。

子孫

二代目の清基は承元年中に保司職を継承したが、後に、承久の乱に後鳥羽上皇方に加わったとして保司職を解任された。
彼はそれを不服として無実を鎌倉に訴えたが、裁判は破れ、偽りを述べた罪で鎌倉で首を斬られた。
『吾妻鏡』二十六に、承久3年(1221年)10月28日、平清基麻植保没収の記事がある。

三代目の俊職は官職を失って浪々の身となり京に出たが、承久の変の敗者には仕える主人も現れなかった。
その後、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し捕らえられた。
首謀者の諏訪刑部左門は斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界が島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した。

俊職のおじ康利は一族をまとめて森藤を引き払い、昔、父康頼が赴任した越前国足羽郡の縁者を頼って彼の地へ去り、康利は出家して探嶺院に入った。
その子の康綱も出家して後を継ぎ、探嶺院を浄土真宗心光山常照寺と改め、権大僧都となり、同寺の開祖となり、子孫は代々僧となって名を上げた。

大坊創建の事情について

愛知県美浜町 (愛知県)の野間大坊康頼による大坊創建の事情については、『吾妻鏡』に詳しく述べられている。
また、頼朝が父義朝の廟所に参拝した折(建久元年)、その奇特な行いを謝して設けた供養塔と言い伝えられているが、疑問点がある。
頼朝は正治元年1月に53歳で死亡している。
当時康頼はまだ健在で、その後20年も生きていることから、頼朝が康頼の供養塔を建てるはずがない。
明治の末頃、阿波史の著者手束愛次郎も疑問をもち、当時の知多郡役所に調査を依頼した。
回答は、次の通りであったという。
「頼朝は建久元年に、野間の大御堂寺にあった父義朝の墓と、家臣の墓を改築した。」
「それが後年になって、平康頼が義朝の墓(この墓でなく以前にあった墓)が荒れているのを修理して、堂宇を建て(大御堂寺の前身)水田三十町歩を寄進したという話の方が有名になり、家臣の供養塔を康頼の墓と誤り伝えたものである。」
「平康頼は当地で死亡しておらず、墓とは何の関係もない」
伝承にいう頼朝が建てたものではなく、後になって、寺に関係した者が、大御堂寺創建者としての康頼を供養して立てたもののようである。

[English Translation]