平手汎秀 (HIRATE Hirohide)

平手 汎秀(ひらて ひろひで、天文 (元号)22年(1553年) - 元亀3年12月22日 (旧暦)(1573年1月25日))は、安土桃山時代の武将。
織田氏の家臣。
幼名は秀千代。
通称は甚左衛門。

官位は監物。

平手政秀の三男、もしくは兄・平手久秀の嫡男(政秀の孫)とも言われる。

経歴
『信長公記』に登場する平手政秀の三子のうち、「監物」又は「甚左衛門」(あるいはその双方)にあたる人物。

系図類においては、政秀の子である平手久秀の子にあたる。
久秀も「監物」と称した。

織田信長配下の武将として、石山合戦などに各地を転戦する。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いに滝川一益・林秀貞・佐久間信盛・水野信元らと共に援軍として出陣したが、武田信玄の軍勢によって敗北した。

一益・信盛らは早々に撤退したが、汎秀は家康と共に戦ったものの敗れ、浜松周辺の地理に不慣れだったこともあり退却に失敗し、追走してきた武田軍に討ち取られた。
こうして、平手氏嫡流は途絶えた。

汎秀は信長に目をかけられた将の一人であり、信盛が後に信長によって追放される際には「信盛は秀貞・信元らとともに、汎秀を見殺しにした」との理由をつけられている。

戦没地は稲葉山(いなんば)(静岡県浜松市)と伝わり、監物坂という地名の坂もある。
かつてその地には汎秀の墓碑と家臣の墓碑が存在し、平手神社として信仰を集めた。
汎秀が喘息を患っていたため、祈ると喘息が治癒すると伝わっていた。

平手神社は施設の老朽化などの諸事情により2006年に全て取り壊され、汎秀の墓碑と家臣の墓碑は野ざらしの状態となっていたが、2007年3月に平手家の末裔が平手神社より浜松市の許可を得て墓碑を菩提寺の長福寺に移転させた。
その墓碑には、名が「時秀」と刻まれている。

現存する墓所は『牛頭山 長福寺 (名古屋市)』(真言宗 智山派)(愛知県稲沢市平和町下三宅)。

[English Translation]