平重衡 (TAIRA no Shigehira)

平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の武将。
平清盛の五男。
母は平時子。
位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称された。

平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺盧舎那仏像を焼亡させた。
墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。
平氏滅亡後、奈良衆徒の要求で引き渡され、木津川 (京都府)畔で斬首された。
その将才は「武勇の器量に堪う」(『玉葉』)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。

生涯

父の清盛は保元の乱、平治の乱を勝ち抜いて平氏政権を樹立。
正妻の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、治承3年(1179年)には左近衛権中将に進んだ。

だが、平氏の権勢の高まりは後白河法皇・院近臣との軋轢を生み、同年11月、清盛はクーデターを起こして院政を停止する(治承三年の政変)。
この事件の際に重衡は後白河への奏上を行う使者となっている。

翌治承4年(1180年)5月、以仁王と源頼政が平氏打倒の挙兵に踏み切った(以仁王の挙兵)。
この挙兵は早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次いだ。
8月に源頼朝が伊豆国で挙兵し、同年10月の富士川の戦いで平維盛の追討軍を破り、関東を制圧してしまった。
さらに後白河と密接につながる園城寺や、関白・松殿基房配流に反発する興福寺も公然と反平氏活動を始めた。

同年12月25日、「悪徒を追討せよ」との清盛の命により、重衡は宇治市を経て南都へ向かった。
興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を巡らせて迎えうつ。
河内国方面から侵攻した重衡の4万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫った。
28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、経典・教本のことごとくが燃えてしまったという。
この時に聖武天皇が建立した東大寺盧舎那仏像も焼け落ちてしまった。
『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になってしまっている。

この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。
翌治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は死去する。
同年3月、墨俣川の戦いで源行家・源義円を破り、源氏の侵攻を食い止めた。

一門都落ち
寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされた。
重衡も妻の輔子とともに都落ちした。

重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。
同年10月の備中国・水島の合戦で源義清 (矢田判官代)・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。
翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した源範頼と源義経によって滅ぼされた。
この間に平氏は摂津国・福原京まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していた。

だが、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。
重衡は京へ護送され土肥実平が囚禁にあたった。
後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営をおく平氏の総帥・宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。

同年3月、重衡は梶原景時が護送して鎌倉へ送られ、頼朝と引見した。
その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。
頼朝は重衡を慰めるために宴をもうけ、工藤祐経に鼓を打たせ今様を謡わせ、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。
『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった。

元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。

最期

同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。
22日に東大寺の使者に引き渡された。
『平家物語』には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。
『愚管抄』にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。

23日、重衡は木津川 (京都府)畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。
享年29。

妻の輔子は重衡の菩提を弔うために出家して平徳子に仕えた。
夫婦の間に子は無かった。

重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。
人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。

京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。

東大寺盧舎那仏像は俊乗坊重源の大勧進によって再建され、建久6年(1195年)に大仏殿の落慶法要が行われた。
戦国時代 (日本)に松永久秀によって再び焼亡し、現在のものは江戸時代に再建されたものである。

官歴
※日付=旧暦
応保2年(1162年)(6歳)
12月23日従五位下

応保3年のち改元して長寛元年(1163年)(7歳)
正月24日尾張守(頼盛の後任)

永万2年のち改元して仁安 (日本)元年(1166年)(10歳)
11月18日従五位上(中宮・藤原育子御給)
12月30日左馬頭(宗盛の後任)

仁安3年(1168年)(12歳)
正月6日正五位下(女御・平滋子御給)
8月4日従四位下

嘉応3年のち改元して承安 (日本)元年(1171年)(15歳)
正月6日従四位上(建春門院御給)

承安2年(1172年)(16歳)
2月10日中宮亮(中宮・平徳子)
2月17日正四位下

治承2年(1178年)(22歳)
12月15日春宮亮(東宮・言仁親王)。
左馬頭如元。
中宮亮を辞任

治承3年(1179年)(23歳)
正月19日左近衛権中将
12月14日左中将を辞任。
春宮亮如元

治承4年(1180年)(24歳)
正月28日蔵人頭
2月21日新帝(安徳天皇)蔵人頭。
春宮亮を辞任

治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳)
5月26日左中将に還任。
従三位

養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳)
3月8日但馬権守兼任

寿永2年(1183年)(27歳)
正月7日正三位(建礼門院御給)
8月6日解官

[English Translation]