広瀬宰平 (HIROSE Saihei)

広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年5月5日 (旧暦)(1828年6月16日)- 大正3年(1914年)1月31日)は、初代住友総理人である。
明治期の大阪財界の大立者。

広瀬宰平は、近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家北脇家の次男として生まれた。
幼名駒之助、維新後宰平と改名した。
9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。
1855年、家長住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった広瀬家の養子となる。
1865年、宰平は別子銅山の総支配人に昇進する。
住友としては異例の抜擢であった。
明治維新の際には別子銅山を接収しようとした新政府代表の川田小一郎に対し「銅山経営を経験のない者に任せると、利益なく国家の大損失となる」と、経営を引き続き住友に任せるよう説得しこれを認めさせた。
さらにフランスの技師を招いて指導を仰ぐなどの近代化を達成。
住友の基盤を守り発展させた。

また、広瀬の住友への貢献は、住友の家政改革を断行したことでもある。
1877年2月、住友家第十二代家長・住友吉左衛門12代目 友親は、病気のため広瀬宰平を総理代人に指名した。
総理代人は「商法上一切の事務を総轄して、数多雇人を統御する」権限をもつとされたから、広瀬は住友家の経営権限を委譲されたことになった。
同時にそれは広瀬宰平の独裁制が強まったことを意味するものであった。
しかし、独裁的な権限を手中にするようになった宰平に対しては、住友内部から批判の声が起こるようになった。
その底流には別子の近代化はさておき、広瀬のリーダーシップにより展開した事業の成績が芳しくなかったこと、それに対して内部から強かった銀行設立の要望に広瀬がかたくなであったことなど事業戦略上の批判があった。
また重任局での合議制を骨抜きにし、広瀬独裁体制を追認するよう家法改革を断行したことに対する不満もあった。
こうした厳しい局面を迎えて、広瀬は自ら退身する決意を固め辞表を提出されて1894年11月、総理人を辞任した。

[English Translation]