庭田嗣子 (NIWATA Tsuguko)

庭田 嗣子(にわた つぐこ、文政3年(1820年) - 慶応3年11月9日 (旧暦)(1867年12月4日))は、仁孝天皇の典侍。

概要

父は大納言の庭田重能。
母は大炊御門家孝の娘。
兄に庭田重基、五辻高仲がいる。
宮中では新典侍、宰相典侍と称された。

天保5年(1834年)、初めて宮中に出仕する。
天保7年(1836年)には仁孝天皇の典侍となる。
仁孝天皇は弘化3年(1846年)に崩御するが、嗣子は退く事を許されなかった。
引き続き宮中に留まり、後宮の指導にあたった。

万延元年(1860年)、孝明天皇の皇妹和宮親子内親王の征夷大将軍である徳川家茂への降嫁が決まると、和宮付きを命ぜられてともに江戸へ下った。
江戸城大奥では和宮の生母・橋本経子(観行院)と供に和宮の側近として大いに貢献した。
大奥では。
慶応元年(1865年)に観行院が亡くなると、終生、和宮に尽くし、和宮を批判する天璋院や大奥御年寄らと対立した。

慶応3年(1867年)江戸城大奥で亡くなった。
墓が京都市黒谷町金戒光明寺龍光院にある。

[English Translation]