徳一 (Tokuitsu)

徳一(とくいつ、天平宝字4年(760年)? - 承和 (日本)2年(835年)?)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。
父は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、徳一はその十一男と伝えられている。
徳溢、得一とも書く。
生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日 (旧暦)(824年8月23日)没と記されている。

初め東大寺で修円らから法相教学を学んだとされ、20歳頃に東国へ下った。
弘仁6年(815年)空海から密教経典などの書写・布教を依頼されるが、これに対して真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送っている(ちなみに空海は徳一の「未決文」に対してあえて反応は示さなかった。)
(真言宗側から「未決文」に対して反論がなされたのは実に500年後のことである)。

また、天台教学に対しては「仏性抄」を皮切りに批判を加え、弘仁8年(817年)年頃から最澄との間で一大仏教論争である三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん。または「三乗一乗権実論争」)を展開した。

この間、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂 (つくば市))、西光院など陸奥南部~常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。
現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。

[English Translation]