徳川家斉 (TOKUGAWA Ienari)

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、日本の武士・徳川幕府第11代征夷大将軍(将軍在職1787年 - 1837年)。

御三卿の一橋家の第2代当主・徳川治済の長男。
母は側室・お富の方(慈徳院)。

第8代将軍・徳川吉宗の曾孫である。
乳母は大崎局。
正室は近衛経熙養女・広大院(実父・島津重豪)、側室は多数いる。

第11代将軍就任

安永2年(1773年)10月5日、徳川治済の長男として生まれる。

安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と田沼意次の裏工作。
並びに家治に他に男子がいなかったためもあって、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。

天明6年(1786年)に家治が50歳で急死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍職に就任した。

寛政の改革

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。
これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた松平定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代つなぎにしようとしたのである。

寛政元年(1789年)、島津重豪の娘と結婚している。

松平定信の寛政の改革は、積極的に幕府財政の建て直しを図ったのだが、厳格過ぎたため次第に家斉をはじめとする幕府上層部から批判が起こる。
さらに尊号事件や大御所事件なども重なって次第に家斉と定信は対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免した。

大御所時代

松平定信の失脚後、家斉は寛政の遺老と言われた松平信明 (三河吉田藩主)を老中首座に任命し、幕政を任せた。
しかし文化 (元号)14年(1817年)に信明は病死する。

このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら寛政の遺老らを幕政の中枢部から遠ざけた。
忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。
さらに家斉自身も宿老がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、これに度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。
忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価騰貴などを招くことになった。

天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から老中となった水野忠邦がその後任となる。
しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。
この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こる。
さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。
また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった時期でもあった。

最晩年と最期

天保8年(1837年)4月、次男・徳川家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所政治)。
最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。

天保12年(1841年)閏1月7日に薨去。
享年69。

このように栄華を極めた家斉であったが、その最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。
なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府による死の秘匿が行なわれたものと思われる。

家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄、大奥等数人が罷免・左遷される。
そうして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

官歴

天明元年(1781年)閏5月18日、将軍後継者となる。

天明2年(1782年)4月3日、元服し、家斉と名乗る。
従二位大納言に叙任。

天明7年(1787年)4月15日、正二位内大臣に昇叙転任し、近衛大将を兼任。
併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。

文化 (元号)13年(1816年)4月2日、右大臣に転任。
右近衛大将の兼任元の如し。

文政5年(1822年)3月5日、従一位左大臣に昇叙転任し、近衛大将を兼任。

文政10年(1827年)3月18日、太政大臣に転任。

天保8年(1837年)4月2日、征夷大将軍辞職

天保12年(1841年)閏1月7日(『続徳川実紀』では閏1月30日)、薨去。

2月17日贈正一位。

※平清盛以来、内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番に歴任した武家は家斉だけである。
また、徳川将軍家で近衛大将を兼任したのは徳川家光以来の出来事である。

家斉の子・妻妾

特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子を儲けた。
その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。
また、家斉にはそのほかにも妾がいたとも伝えられており、一説には40人とも言われる。
御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。

一方で、下記のように、子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制を行なっていたとも考えられる。
また、徳川宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。
また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。
ただし、家斉の娘を娶った鍋島直正や毛利斉広の養子である毛利敬親が倒幕に関係したことからすると、血縁関係による大名統制は失敗に終わったとも言えるだろう。

家斉の時代は、最も大奥が活用された時代である。

たくさんの子女に恵まれたものの、実際に成年まで生きたのは半分だったといわれる。
その上、長命の子息が他家に流出してしまう。

子女と、その母

正室:近衛寔子(広大院) - 島津重豪の娘、近衛経熙の養女

五男:徳川敦之助(1796-1799) 清水徳川家当主・徳川重好の養子

側室:お万の方(勢真院) - 平塚為喜の娘

長女:淑姫(1789-1817) 尾張徳川家当主・徳川斉朝に嫁ぐ

次女:瓊岸院(1790)

長男:竹千代(1792-1793)

三女:綾姫(1795-1797) 仙台藩主・伊達周宗と婚約

側室:お楽の方(香琳院) - 押田勝敏の娘

次男:徳川家慶(1793-1853) 第12代将軍

側室:お梅の方(真性院) - 水野忠芳の娘

三男:端正院(1794)

側室:お歌の方(宝池院) - 水野忠直の娘

四男:敬之助(1795-1797) 尾張徳川家当主徳川宗睦の養子

六男:豊三郎(1798)

六女:五百姫(1799-1800)

九女:舒姫(1802-1803)

側室:お志賀の方(慧明院) - 能勢頼能の娘

四女:総姫(1796-1797)

側室:お里尾の方(超操院) - 朝比奈矩春の娘

五女:格姫(1798-1799)

側室:お登勢の方(妙操院) - 梶勝俊の娘

七女:峰姫(1800-1853) 水戸徳川家当主・徳川斉脩に嫁ぐ

七男:徳川斉順(1801-1846) 清水徳川家、後に紀州徳川家当主・徳川治寶の養子

十女:寿姫(1803-1804)

十二女:晴姫(1805-1807)

側室:お蝶の方(速成院) - 曽根重辰の娘

八女:亨姫(1801-1802)

八男:時之助(1803-1805)

九男:虎千代(1806-1810) 紀州徳川家・徳川治寶の養子

十男:友松(1809-1813)

十二男:徳川斉荘(1810-1845) 田安徳川家・徳川斉匡の養子、後に尾張徳川家当主・徳川斉温の養子

十九女:和姫(1813-1830) 長州藩主・毛利斉広に嫁ぐ

十六男:久五郎(1815-1817)

側室:お美尾の方(芳心院) - 木村重勇の娘

十一女:浅姫(1803-1843) 福井藩主松平斉承に嫁ぐ

側室:お屋知の方(清昇院) - 大岩盛英の娘、諸星信邦の養女

十三女:高姫(1806)

十五女:元姫(1808-1821) 会津藩・松平容衆に嫁ぐ

側室:お袖の方(本性院) - 吉江政福の娘

十四女:岸姫(1807-1811)

十六女:文姫(1809-1837) 高松藩主・松平頼胤に嫁ぐ

十七女:艶姫(1811)

二十女:孝姫(1813-1814)

十八男:陽七郎(1818-1821)

二十一男:徳川斉彊(1820-1849) 清水徳川家、後に紀州徳川家当主・徳川斉順の養子

二十四男:富八郎(1822-1823)

側室:お八重の方(皆春院) - 牧野忠克の娘、土屋知光の養女

十一男:徳川斉明(1809-1827) 清水徳川家の養子

十八女:盛姫(1811-1846) 佐賀藩主・鍋島直正に嫁ぐ

十三男:池田斉衆(1812-1826) 鳥取藩主・池田斉稷の養子

十五男:松平斉民(1814-1891) 津山藩主・松平斉孝の養子

十七男:信之進(1817)

二十五女:喜代姫(1818-1868) 姫路藩主・酒井忠学に嫁ぐ

二十男:松平斉良(1819-1839) 浜田藩主・松平斉厚の養子

二十三男:蜂須賀斉裕(1821-1868) 徳島藩主・蜂須賀斉昌の養子

側室:お美代の方(専行院) - 内藤就相の娘、中野清茂の養女

二十一女:溶姫(1813-1868) 加賀藩主・前田斉泰に嫁ぐ

二十三女:仲姫(1815-1817)

二十四女:末姫(1817-1872) 広島藩主・浅野斉粛に嫁ぐ

側室:お八百の方(智照院) - 阿部正芳の娘

十四男:奥五郎(1813-1814)

側室:お以登の方(本輪院) - 高木広允の娘

二十二女:琴姫(1815-1816)

二十六女:永姫(1819-1875) 一橋徳川家当主・徳川斉位に嫁ぐ

二十二男:松平斉善(1820-1838) 福井藩主・松平斉承の養子

二十五男:松平斉省(1823-1841) 川越藩主・松平斉典の養子

二十六男:松平斉宣(1825-1844) 明石藩主・松平斉韶の養子

側室:お瑠璃の方(青蓮院 (徳川家)) - 戸田政方の娘

十九男:徳川斉温(1819-1839) 尾張徳川家当主・徳川斉朝養子

二十七女:泰姫(1827-1843) 鳥取藩・池田斉訓に嫁ぐ

猶子

尊超入道親王(1802-1852)(有栖川宮織仁親王第8皇子)

上記の他、生まれる前に流産した子供も4人いる。


徳川家定(1824-1858) 13代将軍

徳川慶昌(1825-1838) 一橋徳川家第6代当主

前田慶寧(1830-1874) 加賀藩第13代藩主

池田慶栄(1834-1850) 鳥取藩第11代藩主

徳川家茂(1846-1866) 14代将軍

蜂須賀茂韶(1846-1918) 徳島藩最後の藩主

徳川昌丸(1846-1847) 一橋徳川家第8代当主

人物・逸話

幼少期から異様な性癖があったと伝えられている。
蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。

家斉の在位50年は、歴代将軍の最長記録である。

大樹寺にある位牌からすると、身長は156.6センチである。
徳川将軍15人の中で5番目の長身であり、後期の将軍の中では大柄である。

二男・家慶とは不仲であったと言われる。
家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し家慶は浄土宗を信仰していたこと、家斉が大御所となってからも権力を握り続けたこと、家斉の寵臣たちが家慶の四男・家定を毒殺しようとしているとの噂が流れていたことなどからも、2人の関係性が窺える。

非常に多くの子を作ったのは15歳で将軍職を継ぐ際に、子女を多く儲けるように実家・一橋家より訓戒をうけたためであり、徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるためでもあった。
このため、水戸徳川家を除く御三家・御三卿には家斉の弟、もしくは実子が養子入りしている(ただし肝心の一橋家の系統は徳川昌丸で断絶し、水戸徳川家から徳川慶喜が養子入りして後に将軍になるという皮肉な結果となった)。

壮年時代は毎晩のように晩酌をし、浴びるように飲んでも乱れなかったという。
晩年になると節酒に転じた。

非常に身体壮健であり、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであった。

「白牛酪」(はくぎゅうらく)という今で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。

生涯頭痛に悩まされた家斉だが、徳川家基のたたりを恐れていたからだと言われている。

生姜を好み、1年中食べていた。

俗物将軍と呼ばれたという。
幕政をほとんど主導せず、松平定信や松平信明らの幕閣に任せて自らは大奥に入り浸っていた。
また多くの子女を生み、それらを多くの大名家に縁組させたことは、幕府財政を大きく揺るがせることとなった。

遊び狂っていた腐敗将軍として有名で、家斉の治世50年間の間に江戸幕府の負の遺産が築かれ、それが幕末にも大きく影響することになる。

父・徳川治済が存命中は父の言いなりであったと言われる。

晩年になっても先代徳川家治の息子徳川家基の命日に自ら参詣するか、若年寄を代参させていた。
先代の子供にここまで敬意を払うのは異例であり、家基が変死していることもあり、北島正元や井沢元彦は家斉が家基は自分を将軍の座につけようとしていた一橋治済一味に暗殺されたと疑っていた可能性が高いとしている。

頼山陽の『日本外史』では、家斉の治世50年間は「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを極む」とある。
家斉の治世は将軍が政務に無関心であっても世は平穏で幕府の権勢が絶頂期にあったとしている。

従一位・太政大臣にまで昇任している。
従一位昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣昇任は第2代将軍徳川秀忠以来である。

精力増強のため、オットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたため「オットセイ将軍」と呼ばれた。

[English Translation]