忍性 (Ninsho)

忍性(にんしょう、建保5年7月16日 (旧暦)(1217年8月19日) - 乾元_(日本)2年7月12日 (旧暦)(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。
号は良観。
父は伴貞行。

略歴

大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。

1232年死の床にあった母の懇願により、16歳で大和国額安寺に入って出家、翌年東大寺にて授戒を受ける。
以後、文殊信仰を学んだ後に行基ゆかりの竹林寺 (高知市)などで修行を重ねたが、忍性が後に師の叡尊に語ったところによれば、自主的な出家ではなかったために僧侶としての活動は決して熱心ではなかったという(『金剛仏子叡尊感身学正記』)。

1239年に叡尊が主導していた西大寺 (奈良市)の再建に勧進聖として加わった忍性は叡尊に惹かれて同寺において再度叡尊の下で授戒してその弟子となり、翌1240年3月に改めて出家の儀式をやり直している。
忍性は教学を学びなおしながら、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行い、この間に律宗布教にも努めた。
1243年に初めて関東に赴いて、同地の仏教事情を調査している。

1252年には本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸国に住む。
鎌倉の御家人や北条重時、北条実時ら北条氏の信頼を得て、1262年には鎌倉へ進出。
北条重時の葬儀を司り、1267年には極楽寺 (鎌倉市)を中心に活動を行う。
師の叡尊を鎌倉へ招き、飯島からの関米徴収権や、大仏殿の管領権を持つ。
日蓮などからは非難され、対立する。

1303年、極楽寺において87歳で死去。
遺骨は竹林寺にも分骨されたという。

師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。
忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。
その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。
真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。

[English Translation]