惟宗允亮 (KOREMUNE no Tadasuke)

惟宗 允亮(これむね の ただすけ、?-寛弘6年(1009年)?)は、平安時代中期の貴族。
同時代を代表する明法道の権威であり、令宗(よしむね)朝臣 の姓を授けられた。
惟宗致方の子とされているが、その父である惟宗公方(惟宗直本の子)の子とする異説もある。

明法得業生より立身して、永観2年(984年)に明法博士として名前が現れる。
その後も永祚 (日本)2年(990年)には既に博士を退任しているのにも拘らず、勘文提出を命じられている。
正暦3年(992年)勘解由使次官、翌年には衛門府に任じられ、長徳2年(996年)には従五位上に列して加賀国国司、長保元年(999年)には備中国権介を兼務している。
また、長徳の変当時には検非違使の職も兼ねており、内大臣藤原伊周逮捕の際に指揮を執っている。
長徳4年(998年)頃、弟と推定される明法博士惟宗允正とともに令宗朝臣の姓を与えられた。
令宗とは「律令の宗師(学界の第一人者)」という意味である。

長保元年6月30日_(旧暦)、自宅において律令の講義を行っている。
明法道の学者といえども自宅での講義には天皇の宣旨による許可が必要とされており、実際にこれを許されたのは平安前期の讃岐永直、允亮の曽祖父(祖父とも)である惟宗直本とこの時の允亮の3例のみであり、前年の令宗賜姓と並んで彼の社会的名声が破格のものであった事を示している。

長保5年(1003年)正五位下に叙せられ、この頃に起きた宇佐八幡宮の内紛の調停のために大宰府へと派遣されている。
寛弘3年(1006年)には従四位下に叙せられて、河内国国司に任ぜられた。
従四位下はこの叙任の前年に死去した陰陽師の安倍晴明と同じ位階であり、両者とも当時の家格からして前例のない叙任であったという側面からしても、その社会的名声の高さを示している。
翌年には任国から平安京に召還されて藤原道長の屋敷(土御門殿)にて開かれた諸道論議の場に参加している。
任が終わった後も河内国大県郡に留まり程なく病死したと言われている。

藤原実資の依頼で執筆されたとされる『政事要略』130巻は現在は25巻しか残されていないが、当時の律令学説を知る上で貴重であるとともに、彼の知識の深さを物語っている。
他にも『類聚判集』100巻・『類聚律令刑官問答私記』1巻などの著書があったとされるが、現在に伝わっていない。
また、彼の日記『宗河記』の逸文が残されている他、『延喜式』の注釈の中にも彼を由来とするものが残されている。

長保元年の自宅での講義を実際に聞いたとされる大江以言(大江千里 (歌人)の孫で文章博士)は、允亮の講義の素晴らしさを日記で記しており、後世においても大江匡房や葉室定嗣などが高く評価している。

[English Translation]