明智光慶 (AKECHI Mitsuyoshi)

明智 光慶(あけち みつよし、永禄12年(1569年) - 天正10年6月15日_(旧暦)(1582年7月4日))は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての戦国武将。
通称・十五郎。
明智光秀の長子とされる。
明智定頼の兄。

実在は確認されているが光慶が歴史に記されるのは、光秀による丹波国・亀山城 (丹波国)(京都府亀岡市)の築城前後であり、目立った戦功や功績は明らかではない。

天正10年5月28日 (旧暦)に催された西之坊威徳院連歌において光慶が結句を詠んだ愛宕結句で知られる。

本能寺の変の折は、亀山城にいた。
続く二条御所騒動で織田信忠が死去すると、近江国・坂本城(滋賀県大津市)に移り西国防備にあたった。
しかし、山崎の戦いで父光秀が敗走中討たれると、中川清秀、高山右近らの攻撃に持ちこたえる事が出来ず自害した(最期の地は亀山城との史料もある)。

なお、後年妙心寺の住職となった僧の玄琳は光秀の子であり、系図に他に相当する男子がいないことから、光慶が生存して玄琳になったのではないかとする説が現在浮上している。

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