有馬豊氏 (ARIMA Toyouji)

有馬 豊氏(ありま とようじ、1569年5月18日(永禄12年5月3日 (旧暦))-1642年11月22日(寛永19年9月30日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての武将(大名)。
丹波国福知山藩主、のち筑後国久留米藩初代藩主。
久留米藩有馬家2代。

豊臣秀吉に仕えた有馬則頼の次男。
母は別所忠治の娘。
正室は長沢松平康直の娘・蓮姫。
子に有馬忠頼(長男)、有馬信堅(次男)、有馬頼次(三男)、娘(鳥居忠房正室)、娘(小出吉重正室)、娘(土田某室)、娘(水野守信正室)。

播磨国赤松氏の庶流で、はじめ渡瀬繁詮(父・則頼の女婿で豊氏の義兄)の家老を務めていた。
だが、繁詮が文禄4年(1595年)の豊臣秀次の事件に連座して改易されたうえに切腹となったため、その所領と家臣を全て引き継ぎ、秀吉に仕えることとなった。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備を務めた功績により、家康から戦後、遠江国横須賀3万石から丹波国福知山藩6万石に加増移封された。
後に父の遺領摂津国三田藩2万石も継ぎ8万石となった。

以後は徳川氏の家臣として仕え、駿府城や江戸城の普請で功績を立てた。
慶長19年(1614年)からの大坂の役においても徳川方として参戦した。
功を挙げたことにより、筑後国久留米藩に21万石を与えられ国主となった。
寛永14年(1637年)に起こった島原の乱にも参戦し、功を立てている。
寛永19年(1642年)、74歳で没した。
後を長男・忠頼が継いだ。

茶道も嗜む文化人で、利休七哲の一人に数えられることもある。

[English Translation]