村井貞勝 (MURAI Sadakatsu)

村井 貞勝(むらい さだかつ)は、織田政権下の京都所司代。
仮名 (通称)は吉兵衛。
出家して春長軒と号す。
官位は民部省、長門国。

出自

太閤記に拠れば、出身は近江国。
行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。

弘治 (日本)2年(1556年)に織田信行が兄の信長に叛旗を翻した時には既に信長に仕えており、島田秀満(秀順)と共に土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行った。
信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政、佐久間信盛、豊臣秀吉、丹羽長秀らの諸将と共に京都に残留し、諸政務に当たっている。

上京まで

美濃三人衆降誘の際の人質受け取りや足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など、織田氏の政務を担う。
朝山日乗と共に京都御所の修築も担当している。

京都所司代

足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。
松井友閑や武井夕庵、明智光秀、塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ“織田政権下における、京都に関する行政の全て”を任されている。

天正3年(1575年)、京都の町人に御所の築地塀の修復を命じた貞勝は、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。
築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。
あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物に訪れた。
その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという(信長公記)。

同年7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。
貞勝は長門国に叙任される。

天正9年(1581年)、出家して村井春長軒と号し、家督を子の村井貞成に譲っている。
ルイス・フロイスは貞勝を「京都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評している。

最期

天正10年(1582年)の本能寺の変では本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。
信忠に二条城への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死した。
また、子の貞成・村井清次も同所で討死している。

京都市の大雲院には、“頭を丸めた老人”という体の貞勝の肖像が残っている。
娘は佐々成政、前田玄以、福島高晴に嫁いでいる。

[English Translation]