松平定猷 (MATSUDAIRA Sadamichi)

松平 定猷(まつだいら さだみち、天保5年5月28日 (旧暦)(1834年7月4日) - 安政6年8月22日 (旧暦)(1859年9月18日))は、江戸時代末期の大名。
伊勢国桑名藩の第3代藩主。
定綱系久松松平家12代。

第2代藩主・松平定和の長男。
母は島津重豪の娘・孝姫。
正室は真田幸良の娘。
子に松平定教(長男)、初子(松平定敬正室)。

天保5年(1834年)5月28日生まれ。
通称は和之進。
名は定猷のほか、定統、猷。
官位は従四位下、越中国守、侍従。
天保13年(1842年)、父・定和の死で幼少の身ながら藩主となった。
しかし藩主就任の年、桑名の大火と飢饉が発生する。
その後も安政元年(1854年)には安政の大地震が起こるなど、その治世は天災のために多難を極めた。
財政は天災に対する救済費、対策費などで火の車となった。

嘉永6年(1853年)、徳川家定が第13代将軍になると、同じ「定」の字を避けるため、猷と名乗った。
安政6年(1859年)、京都警護を命じられたが、藩内における財政窮乏問題などからの心労で病に倒れ、同年8月21日、または8月22日に26歳の若さで病死した。
死後、長男の定教は幼少で妾腹でもあったため、正室の子である初子に婿養子の松平定敬を迎え、家督を継がせた。
法号:英哲院殿寛誉至徳健堂大居士。
墓所:東京都江東区白河 (江東区)の霊巌寺 (東京都江東区)。

[English Translation]