松平忠明 (MATSUDAIRA Tadaakira)

松平 忠明(まつだいら ただあきら)は、 安土桃山時代から江戸時代前期の大名。
江戸幕府の宿老・西国探題。
奥平松平家初代。
本項目で解説。

江戸時代後期の旗本(1765年-?)。
小姓組・書院番・日光奉行・蝦夷島見分隊長などをつとめる。

松平 忠明(まつだいら ただあきら)は、安土桃山時代の武将。
三河国作手藩主。
後に伊勢亀山藩主、摂津国大坂藩主、大和国郡山藩主を経て、播磨国姫路藩の初代藩主となる。
奥平松平家初代。

生涯

天正11年(1583年)、徳川氏の重臣・奥平信昌の4男として生まれる。
母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。

天正16年(1588年)、徳川家康の養子となり、松平姓を許された。
文禄元年(1592年)に兄の松平家治が死去したため、その家督を継いで上野国長根に7000石を与えられた。
慶長4年(1599年)3月11日、徳川秀忠から「忠」の字を賜って忠明と名乗る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方として参加した。

慶長7年(1602年)9月、三河作手藩主となる。

慶長15年(1610年)7月27日に伊勢亀山藩5万石の藩主として加増移封された。
慶長19年(1614年)からの大坂の役では美濃国の諸大名を率いて河内口方面の大将となる。
元々、美濃の諸将を率いるのは加納藩の実兄・奥平忠政の役割であったが、出陣前に病没し、加納からは父・信昌による代参陣も無く兵だけが忠明指揮下に遣わされた。
そこで忠明が代わって加納の兵力を含む美濃諸将を束ねることと成った。
忠明の動員兵力が伊勢亀山の所領分よりも異様に高かったのは、このためである。

のちに休戦協定が豊臣氏との間で結ばれると、家康の命令で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。
慶長20年(1615年)からの大坂の役では、道明寺の戦いに加わる。

戦後、大坂の陣での戦功が考慮され、家康の特命により摂津大坂藩10万石の藩主となり、戦災復興にあたった。
戦時の間に中断されていた運河開削が有志によって再開され、完成に至るとこれを賞した。
この運河を道頓堀と名付けたのが、忠明だと言われている。
復興の手腕を高く評価する幕府によって、元和 (日本)5年(1619年)に大和郡山藩12万石へ加増移封された。
寛永3年(1626年)7月には第3代将軍・徳川家光と共に上洛し、8月19日には従四位下・侍従に叙位・任官された。
なお、郡山藩主時代には短期間ながら、剣術の達人・荒木又右衛門を家臣に取り立てていた。

寛永16年(1639年)3月3日、播磨姫路藩18万石に加増移封された。
晩年は井伊直孝と共に江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。
寛永21年(1644年)3月25日、江戸藩邸で死去。
享年62。
後を長男の松平忠弘が継いだ。

人物

徳川秀忠より、将軍家に対して謀反発生の際には後事を託された。
徳川家光が将軍になると宿老として井伊直孝とともに幕政に参与した。

一級の史料とされる『当代記』を著した。

経歴

1583年(天正11年):生まれる
1592年(文禄元年):家督相続
1615年(元和 (日本)元年):大坂夏の陣
1644年(寛永21年):死去(享年62)

官位位階

1600年(慶長5年) :従五位下下総守
1626年(寛永3年) :従四位下侍従

所領

1592年(文禄元年):上野国大胡藩(7000石)に新地
1602年(慶長7年) :三河国作手藩(1万7000石)
1610年(慶長15年):伊勢国伊勢亀山藩(5万石)
1615年(元和元年):摂津国大坂藩(10万石)
1619年(元和5年) :大和国郡山藩(12万石)(10月)
1639年(寛永16年):播磨国姫路藩(18万石)(3月3日 (旧暦))

[English Translation]