松方正義 (MATSUKATA Masayoshi)

松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日 (旧暦)) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士(薩摩藩士)、政治家。
幼名は金次郎。
通称は助左衛門。
近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。
第4代、第6代内閣総理大臣。
ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。
元老従一位大勲位公爵。

生い立ち

現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。
わずか13歳にして両親を亡くす。
弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。

嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。
この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された。

島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係した。
29歳の時、議政書掛という藩政立案組織の一員となった。
低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し称賛する者もいる反面、妬む者もいたという。

慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。
慶応3年(1867年)、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。

大蔵大臣時代

維新政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県に転任する。
日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を発見して調査の末、福岡藩による藩ぐるみの偽札製造の事実を明らかにしたことで大久保利通の評価を得て、その推挙で民部大丞・租税権領に就任する。

以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では地租改正にあたる。
だが、財政方針を巡って大蔵卿大隈重信と対立する。
松方は大隈が進める外債による政府発行紙幣の整理に真っ向から反対したのである。
その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。
だが、明治14年(1881年)の明治14年の政変によって大隈が退陣すると、参議兼大蔵卿として復帰する。
松方は後に松方財政と呼ばれる政府発行紙幣の整理を中心とする金融政策の実現に取り組み、日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行を行った。
この政策によって財政収支は大幅に改善されたものの、深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて、世論の反感を買った。

明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると総理大臣に任命された(第1次松方内閣)。
しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、1年強で辞任に追い込まれた。
その後第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣の大命が下るが、懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党 (日本)との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。

評価

年齢、キャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物であったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに閣内分裂が理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、それゆえ派閥をまとめることが出来なかったといわれる。

ただし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。
日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。
この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。
伊藤・山縣有朋らの死後は元老を主導する立場となり加藤友三郎内閣の成立などに貢献した。

家族 親族

妻 満佐子(薩摩藩士 川上助八郎長女)
- 4男1女の子を産み、妾の子供達も一緒に養育した
長男 松方巌(実業家、銀行家)十五銀行代表者
- 妻は医学者長與專齋の娘、長與稱吉妹
次男 松方正作(外交官)
- 妻は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の弟で2代目総帥岩崎弥之助(元日本銀行総裁)の娘
三男 松方幸次郎(実業家、政治家)川崎造船所社長、衆議院議員
- 妻は三田藩最後の藩主九鬼隆義の娘
四男 松方正雄(阪神タイガース初代オーナー、1986年に野球殿堂入り)
五男 五郎(実業家)東京瓦斯電気工業社長
六男 虎雄
七男 乙彦
- 妻は山本権兵衛元首相の娘
八男 正熊
- 妻は新井領一郎の娘 正熊の娘ハル・松方・ライシャワーはエドウィン・O・ライシャワーに嫁す
九男 義輔
十男 金次郎
十一男 虎吉
- 松本重太郎の養子
十二男 義行
- 森村市左衛門の養子
十三男 松方三郎(登山家、実業家)協同通信社専務理事 他
- 松方家第3代当主
孫 松本重治
プロフィギュアスケーター八木沼純子は子孫の一人(乙彦の曾孫)である

系譜

松方家

松方家は12世紀に島津氏に従って東国からやってきた家だ。
17世紀に松方和泉守が15歳で主命を受けて長崎に鉄砲製造の術を研究に行って以来、鉄砲製造を監督指導して禄を食んできた。
七右衛門は30代目の当主である。
郷士の家に生まれ商業に従事していた松田正恭は、藩士松方七右衛門に見込まれ養子となり七右衛門が没した1818年、松方家の家督を相続し、名を改め以来、"松方正恭"と名乗った。
正義は非常に子沢山(13男11女の24人という)で、或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
正作の妻・繁子は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。
尚、松方一族は現在数百人の会員からなる「海東会」という一族会を形成している。

[English Translation]