松殿基房 (MATSUDONO Motofusa)

松殿 基房(まつどの もとふさ、久安元年(1145年) - 寛喜2年12月28日 (旧暦)(1231年2月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
正式には藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。
松殿家の祖である。
父は関白の藤原忠通(基房は次男)。
母は権中納言の源国信の娘・俊子。
近衛基実の弟、九条兼実の兄にあたる。
子供に藤原隆忠(左大臣)、藤原家房(権中納言)、藤原師家(内大臣 摂政)、伊子(源義仲側室、後に源通親側室、道元の生母といわれている)、僧行意、僧実尊などがいる。

生涯
保元元年(1156年)8月、元服すると同時に正五位下を叙任する。
翌年8月には従三位、権中納言となる。
その後も内大臣、右大臣、左大臣などの高官を歴任し、兄の基実が早世すると、その息子である近衛基通が幼少のため、六条天皇の摂政に就任した。
仁安 (日本)3年(1168年)2月、六条天皇に代わって高倉天皇が即位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応2年(1170年)12月には太政大臣、承安 (日本)2年 (1172年)12月には関白となった。

しかしかつて亡兄・基実の死後、その遺領の大半を基実の妻であった平盛子に奪われたことを恨んでいたらしく、基房は治承3年(1179年)に盛子と平重盛が死去すると、その遺領を平清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。
これに清盛は激怒して同年11月、軍を率いて上洛し、クーデターを起こす。
清盛の軍事力の前に基房ごときが抗することができるはずもなく、直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥に左遷される。
途中備前国で出家する事でようやく同地滞在を許された。
その後の治承4年(1180年)12月になって、ようやく罪を許されている。

清盛の死後、平氏が急速に衰退して寿永2年(1183年)に源義仲の攻勢の前に都落ちすると、基房は娘の伊子を義仲の側室として差し出して連携を結んで清盛時代に失った権勢を取り戻そうと画策する。

そして同年11月、義仲の勢力を背景にして息子の藤原師家を後鳥羽天皇の摂政兼内大臣にまで昇進させた。

寿永3年(1184年)1月に義仲が源義経らによって討たれると、基房は政界から引退することを余儀なくされ、師家も罷免されてしまった。
(ただし長男の隆忠は1211年まで左大臣)

その後は朝廷における行事など、形式的な儀礼などに関わるだけの長老として顔を出すだけだった。
寛喜2年1230年12月28日、87歳の長寿をもって死去。
法号:中山院。
または菩提院。

容姿は色白で痩せ、顔形がよく美男だったという。

殿下乗合事件

基房のエピソードとして最も有名なのが『平家物語』で有名な「殿下乗合事件」である。

嘉応2年(1170年)10月16日、参内途上の基房の車列が鷹狩りの帰途にあった平重盛の次男平資盛の一行と鉢合わせをした。
資盛が下馬の礼をとらないことに怒った基房の従者達が資盛を馬上から引き摺り下ろして辱めを加えた。
これを聞いた祖父の平清盛は、10月21日に行われた高倉天皇元服加冠の儀のため参内する基房の車列を300騎の兵で襲撃し、基房の随身たちを馬から引き摺り下ろして髻を切り落とし、基房の牛車の簾を引き剥がすなどの報復を行い、基房は参内できず大恥をかいた。
これを聞いた重盛は騒動に参加した侍たちを勘当した他、資盛を伊勢国で謹慎させた。
これを聞いた人々は平家の悪行を怒ると共に重盛を褒め称えた。

ただし、『玉葉』や『百錬抄』などによると、事件は同年7月3日に発生し、法勝寺での法華八講への途上、基房の車列が女車と鉢合わせをした。
基房の従者達がその女車の無礼を咎め、乱暴狼藉を働いた。
その車の主が資盛であることを知った基房は慌てて使者を重盛に派遣し、謝罪して実行犯の身柄の引き渡しを申し出る。
激怒した重盛は謝罪と申し出を拒否して使者を追い返した。
重盛を恐れた基房は、騒動に参加した従者たちを勘当し、首謀者の身柄を検非違使に引き渡すなど誠意を見せて重盛の怒りを解こうとした。
しかし、重盛は怒りを納めず兵を集めて報復の準備をする。
これを知った基房は恐怖の余り邸に篭り、参内もしなくなった。
しかし、帝の加冠の儀には摂政として参内しないわけには行かず、10月21日参内途上で重盛の軍兵に襲われ、基房が参内できなかったため加冠の儀は延期されたとされている。
また、同年12月に基房が太政大臣に就任したのは清盛が謝罪の気持ちで推薦したためとも言われている。

以上より平家物語における記述は、平清盛を悪役、重盛を平家一門の良識派として描写する、物語の構成上の演出のための創作であると考えられている。

官歴
※日付=旧暦
保元元年(1156年)8月29日、元服し、正五位下に叙位。
9月8日、左近衛権少将に任官。
9月17日、左近衛権中将に転任。
11月28日、従四位下に昇叙し、左近衛権中将如元。

保元2年(1157年)1月24日、従四位上に昇叙し、播磨権守を兼任。
左近衛権中将如元。
6月25日、正四位下に昇叙し、左近衛権中将・播磨権守如元。
8月3日、禁色を許される。
8月9日、従三位に昇叙し、左近衛権中将如元。
8月19日、権中納言に転任し、左近衛権中将如元。
8月21日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛権中将如元。

保元3年(1158年)3月1日、従二位に昇叙し、権中納言・左近衛権中将如元。

保元4年(1159年)1月2日、正二位に昇叙し、権中納言・左近衛権中将如元。
改元して平治元年12月2日、橘氏長者宣下(藤原氏兼帯の例)

平治2年(1160年)2月28日、権大納言に転任。
8月11日、内大臣に転任。
8月14日、左近衛大将を兼任。

応保元年(1161年)9月13日、右大臣に転任。
9月15日、左近衛大将如元。

長寛2年(1164年)閏10月23日、左大臣に転任。
閏10月26日、左近衛大将如元。

永万2年(1166年)7月27日、摂政宣下、藤氏長者宣下。
左大臣・左近衛大将如元。
8月17日、左近衛大将を辞任。
改元して仁安元年11月4日、左大臣を辞任。

仁安 (日本)2年(1167年)2月11日、従一位に昇叙し、摂政・藤氏長者如元。

嘉応2年(1170年)12月14日、太政大臣宣下、摂政如元。

承安 (日本)元年(1171年)4月22日、太政大臣を辞す。

承安2年(1172年)12月27日、摂政を止め、関白宣下。
准摂政宣下。

治承3年(1179年)11月17日、解官。
11月18日、大宰権帥に遷任し、大宰府へ配流。
11月21日、出家し、法名:善観。
備前国へ配流先変更。

治承4年(1180年)12月2日、帰洛し、嵯峨の地に居を構える。

寛喜2年(1230年年)12月28日、薨去。
享年87 中山院また、菩提院と号す。

[English Translation]