歌川豊国 (UTAGAWA Toyokuni)

歌川 豊国(うたがわ とよくに、明和6年(1769年) - 文政8年1月7日 (旧暦)(1825年2月24日))は江戸時代の浮世絵師。
本名、倉橋 熊吉(くらはし くまきち)。
江戸芝神明前の人形師の息子として生まれる。
歌川派の創始者歌川豊春の元で学び、理想の美しさを表現した役者絵や美人画で絶大な人気を得た。
墓所は三田聖坂の功運寺(大正11年(1922年)に上高田へ移転)。

門生

数多くの弟子を育て、幕末に至る歌川派の興隆をもたらした。
歌川広重も入門を希望したが、門生満員で断られたという。

歌川国安

歌川国丸

歌川国直

歌川国芳

豊国の襲名者

二代豊国は豊国門下の歌川豊重が豊国の養子となり、死去に伴って二代豊国を襲名した。

三代豊国は同じく豊国門下の歌川国貞が、弘化元年(1844年)に重ねて二代豊国を称した。

四代豊国は、国貞の門下で娘婿にもなった二代国貞が明治3年(1870年)に国貞に続いて三代豊国を称した。
これは騒動となったが、四代豊国とされる。

六代目歌川豊国

六代目歌川豊国(1903年~2000年11月13日)は、93歳で高校生、96歳で大学生となり、話題となった。

東京都麻布生まれ。
父は二代目国鶴。
尋常小学校を卒業したが、父から「絵描きには学問はいらない」と言われ、修業のため進学を断念した。
戦中、戦後はカメラの輸出業を経営する。

1972年に経営から引退し、浮世絵に専念していたが、長年進学の希望を抱き続け、93歳になった1996年、大阪府立桃谷高等学校定時制に入学。
96歳の1999年には近畿大学法学部二部の社会人入試枠に合格し、進学した。
「浮世絵のすべてを博士論文にしたい」という目標を掲げ、100歳で大学院合格を目指していたが、入学翌年の2000年11月13日、大阪府東大阪市にある自宅の風呂場で、急性虚血性疾患により死亡しているのを知人が発見した。
97歳だった。

作品

『役者舞台之姿絵』

『絵本時世粧』、町屋や花街を中心に当時(寛政期)の女性風俗を描いた色摺り絵本

[English Translation]