武田国信 (TAKEDA Kuninobu)

武田国信(たけだ くにのぶ)
若狭国守護。
室町時代中期の武将。

因幡国鳥取城主。
戦国時代 (日本)前期の武将。

武田国信(室町時代)

武田 国信(たけだ くにのぶ、嘉吉2年(1442年)- 延徳2年6月21日 (旧暦)(1490年7月8日))は室町時代の大名。
武田氏若狭武田氏の第3代当主。
武田氏安芸武田氏の武田信繁 (室町時代)の三男で、武田信栄や武田信賢の弟。
4代当主武田信親・5代当主武田元信の父。
彦太郎。
治部少輔。
大膳大夫。
宗勲(法名)。

1471年(文明2年)兄の信賢の死去後、武田氏の家督を継ぐ。
信賢に嫡子はいたが、幼少であったため、国信が家督を継ぐこととなる(この信賢の嫡子が武田信広とする伝承がある)。

応仁の乱では兄の信賢同様に細川勝元の東軍に属して、土岐成頼らの西軍と戦うなど奮戦している。
しかし弟武田元綱の離反にも遭うなど苦戦も強いられている。

1475年(文明6年)4月、山名政豊と細川政元の和睦の仲介役を務める。
しかしこのときの和睦の条件の一つとして、武田氏が応仁の乱の最中に一色氏と戦って奪った丹後国の所領を返還せよという条件があった。
丹後に在陣中の武田氏被官人はこれに不満で所領返還を拒んだが、和睦に参加した国信は援軍を丹後に送ることができなかった。
丹後の武田勢は独力で一色氏と戦わざるを得ず、9月に主将逸見真正は自害、武田軍は敗れて壊滅してしまった。
国信はこのとき、落胆して出家し、宗勲と号したという。

その後、足利義尚の六角氏討伐(六角征伐)に従って出陣した。
だが、1490年(延徳2年6月21日)、小浜で病死した。
嫡子の信親には文明 (日本)17年(1484年)に先立たれていたので、もう一人の子の元信が跡を継いだ。
菩提寺は玉華院。

国信は文化人として優れており、和歌や連歌の会をたびたび開いたという。

武田国信(戦国時代)

武田 国信(たけだ くにのぶ、? - 天文 (元号)14年(1545年))は、因幡守護山名氏の家臣で若狭武田氏傍流の一族。
官職は山城守。

事蹟

山名誠通の家臣であった。
1545年、久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。
後に息子武田高信は山名氏に対して叛旗を翻して一時因幡国を制圧することになる(武田氏の頁、因幡武田氏の項を参照)。

「武田豊前守常信」との関係

1546年10月、伯耆国の南条宗勝を助けて橋津川の戦いで尼子氏と戦った因幡山名氏の重臣として「武田豊前守常信」の名が記録に残るが、武田国信と同一人物だったかは不明(同一人物と見る説も存在する)。
鳥取市在住の中世史研究家・高橋正弘によると、武田豊前守は鳥取城にあって但馬国の山名祐豊に呼応して山名誠通の殺害に一役買ったとされる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』1993年)。

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