武者小路実陰 (MUSHANOKOJI Sanekage)

武者小路 実陰(むしゃのこうじ さねかげ、寛文元年11月1日 (旧暦)(1661年12月22日) - 元文3年9月30日 (旧暦)(1738年11月11日))は、江戸時代前期から中期にかけての公卿、歌人。
号は超嶽院。

実父は正親町三条家庶流の院参の公家、西郊実信で、堂上の武者小路公種の養子となる。
実陰が養子に出ることにより西郊家は一度絶えたが、実陰の次男である重季により再興された。

和歌の師である霊元天皇から古今伝授を受けた。
清水谷実業、中院通躬らとともに霊元院歌壇における代表的な歌人であった。
弟子に似雲がいる。

非参議・参議として長らく朝廷に仕え、正徳5年55歳のとき中納言に任じられた。

また享保9年64歳のときには、さらに大納言に昇進し、先任の大納言である滋野井公澄の祝いの和歌に対し下記のように詠んだ。

「老いて又 かかる恵みの位山 のぼらん道も おもいがけしや」

さらに1738年(元文3年)には死の直前にあたり、新家の羽林家としては破格の従一位に叙され、准大臣に任じられた。
これは長年にわたる朝廷への出仕と、中御門天皇・桜町天皇両天皇の歌道師範となるなど、歌道への多大な貢献が評価された結果とされる。

霊元天皇の皇子である一乗院宮尊賞親王とは、同じ歌人仲間として非常に深い親交があった。

歌論書に「初学考鑑」・「詞林拾集(似雲編纂)」、家集に「芳雲集(武者小路実岳編纂)」がある。

子孫には高松公祐(たかまつきんさち)などの有名な歌人がいる。

長寿であり歌道家であったため、おびただしい数の遺墨が残る。

[English Translation]