河上彦斎 (KAWAKAMI Gensai)

河上 彦斎(かわかみ げんさい、天保5年11月25日 (旧暦)(1834年12月25日) - 明治4年12月4日 (旧暦)(1872年1月13日))は、尊皇攘夷派の日本の武士(熊本藩士)。
諱は玄明(はるあきら)。
幕末四大人斬りの一人。

生涯

文久3年、30歳の時、熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推される。
一般的に「人斬り彦斎」などと呼ばれているが、彦斎が斬った人物で確実なのは佐久間象山だけで、後はいつ誰を何人斬ったのかは明確に伝わっていない。
容姿は、身の丈5尺前後(150cmほど)と小柄で色白であった為、一見女性の様であったという。
剣術は我流で、片手抜刀の達人(片膝が地面に着くほど低い姿勢からの逆袈裟斬り)であったと伝えられている。

片山伯耆流を修行したという説もあるが、その根拠となっているのは、当時、熊本藩で最も盛んだった居合が伯耆流だったという事と、所作こそ異なれど伯耆流には逆袈裟斬りの業が多い点が、その理由として挙げられている。

八月十八日の政変後、長州藩へ移り、三条実美の警護を務める。
その後、元治元年6月の池田屋事件で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つべく再び京へ向かう。
元治元年7月11日、公武合体派で開国論者の重鎮、佐久間象山を斬る。
この象山暗殺以降、彦斎は人斬りを行なっていない。

幕長戦争の時、長州軍に参戦、勝利をあげる。
慶応3年に帰藩するが、熊本藩は佐幕派が実権を握っていた為投獄される。
このため、大政奉還、王政復古 (日本)、鳥羽伏見の戦いの時期は獄舎で過ごす。
慶応4年2月出獄。
佐幕派であった熊本藩は、彦斎を利用して明治維新の波にうまく乗ろうとするが彦斎は協力を断る。

維新後、開国政策へと走る新政府は、あくまでも攘夷を掲げる彦斎を恐れた。
二卿事件への関与の疑いをかけられ、続いて参議広沢真臣暗殺の疑いをかけられ明治4年12月斬首。
しかし、この暗殺事件に彦斎は無関係といわれており、明治政府の方針に従わなかった為の斬首とみられる。

辞世の歌は、
君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん
君を思い君の御法に死ぬる身を ゆめ見こりなそつくせ世の人
かねてよりなき身と知れど君が世を 思う心ぞ世に残りける

戒名を『應観法性居士』
墓は池上本門寺。
また、京都の妙法院と熊本の桜山神社に仮墓が一つずつある。

逸話

志士たちが集まりを持った際、酒の席でとある幕臣の事が槍玉に上がった。
「こやつは許せぬ」「斬るべし」等と、酒の入った志士たちが気焔を上げていると、河上彦斎がその場を立った。
暫くして席に戻ってきた彦斎は、話題に上ったその幕臣の首を手に提げて来たという。

[English Translation]