津々見忠季 (TSUTSUMI Tadasue)

津々見 忠季(つつみ ただすえ、生年未詳 - 承久3年6月14日 (旧暦)(1221年7月27日))は、鎌倉時代初期の御家人。
惟宗広言の子。
若狭国守護職。
惟宗氏の流れを汲む島津氏の一門で、薩摩国守護職島津忠久の弟(あるいは兄)と伝える。
室は若狭尼など。
子に若狭忠清がある。
通称は次郎、左兵衛尉、若狭兵衛入道。
後に若狭忠季と名乗った。
若狭島津氏の祖。

遠敷郡津々見保の地頭職に補任されたことから、最初、津々見忠季と名乗る。
建久7年(1196年)9月1日、源頼朝は若狭国内の最有力在庁官人であった稲庭時定より没収した遠敷・三方郡両郡の所領25か所を忠季に与えた。
忠季はこの時点で若狭国守護と補されたと考えられ(「守護職次第」)、これ以後、忠季が「若狭」という国名を苗字としたのは若狭国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自覚によるものであろうと考えられている。

正治元年(1199年)には梶原景時を弾劾する連判状に名を連ねた(梶原景時の変)。
建仁3年(1203年)、比企能員の変に連座して所職を没収される。
承久2年(1220年)、若狭国守護職に復す。
翌年、承久の乱が起こると鎌倉方に属し活躍したが、6月14日淀川における合戦の際、急流のため渡河に失敗して死去。
戦後、甥の島津忠時が若狭国守護職を継いだ。

子孫は、三方郡に本拠地を構えたことから三方氏を名乗り、室町時代初期に若狭守護であった一色氏の被官となった。
一色氏が若狭守護を解任されると三方氏も一色氏に付き従い、南山城に本拠地を移し、諸城の城主を務めたりした。

子孫

『税所次第』及び『守護職次第』から若狭島津氏の4代までの事跡が伺える。

[English Translation]