清沢満之 (KIYOZAWA Manshi)

清沢 満之(きよざわ まんし、文久3年6月26日 (旧暦)〈1863年8月10日〉 - 明治36年〈1903年〉6月6日)は、日本の明治期に活躍した哲学者・宗教家。
旧姓は徳永。
幼名は満之助。
院号は信力院。
法名 (浄土真宗)は、釋現誠。

建峰時代

尾張藩士、徳永永則の子として、尾張国名古屋(現、名古屋市)に生まれる。
英語学校、医学校に入るも、いずれも廃校になり、その方面の道を断念。

1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学、その留学生として東京大学予備門に進み、1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。
学生時代に、井上円了らと「哲学会」を始め、1887年2月に『哲学会雑誌』を創刊した際には編集に当たる。
大学院では、宗教哲学を専攻。
哲学館(現、東洋大学)の創設に関わる。

1888年7月には、真宗大谷派の要請で、当時、同派が経営を委嘱されていた京都府尋常中学校の校長を務め、高倉大学寮にも出講する一方、清沢やす子と結婚し、愛知県碧南市の西方寺の住職となる。

骸骨時代

京都府尋常中学校校長を辞任する。
この頃からミニマム・ポッシブル(Minimum Possible)と呼ばれる最低限の制欲自戒生活を始める。
そんな生活を続ける中、学問の面でも『歎異抄』などをよく読み、その自戒生活の実践の中で得意の哲学的を駆使して『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨』を執筆する。
1892年8月に刊行された『宗教哲学骸骨』は、1893年9月のシカゴ万国宗教大会で英訳されて評判となった。

石水時代

1894年、肺結核を発病し、1896年に京都府愛宕郡白川村(現在の京都市左京区)に移り済む。
白川党の宗門改革運動を始める。
今川覚神や稲葉昌丸らと『教界時言』を発刊、東本願寺における近代的な教育制度・組織の確立を期して種々の改革を建議・推進し、しばしば当局者と対立し、宗門からの除名処分を受ける。

臘扇時代

1898年、宗門よりの除名を解かれ、1899年9月に東京本郷森川に私塾浩々洞を開き、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏ら多くの真宗学者、仏教学者を輩出する。
1901年、浩々洞にて雑誌『精神界』を創刊。
同年、東本願寺が東京巣鴨に開校した真宗大学(後に、高倉大学寮と併合、京都に移されて真宗大谷大学と改称、現、大谷大学)の学監に就任するも、翌年辞任。

浜風時代

明治36年(1903年)6月6日、肺結核が悪化し、改革の道半ばにして西方寺にて死去、満39歳没。

西洋近代哲学の素養の上に立って浄土真宗の信仰を受け止め、近代思想界に紹介した功績、また、そうした素養と信仰とに基づき、内外両面において仏教の近代化を推進した功績は大きい。
晩年の著作からは、自身の深い信仰のあり様がうかがわれる。
著述は『清沢満之全集』(岩波書店)に収載される。

主要な著書

宗教哲学骸骨
他力門哲学
我が信念(絶筆)

[English Translation]