渡辺幸庵 (WATANABE Koan)

渡辺 幸庵(わたなべ こうあん、天正10年(1582年) - 宝永8年(1711年))は、元徳川忠長家臣。
諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。
新陰流を修めた剣術の使い手でもある。

摂津国出身。
若い頃より徳川家に仕えて駿河国に入り出仕。
関ヶ原の戦いの際は秀忠の元大番頭を務める。
その後、慶長18年(1613年)に伏見城番、元和5年(1618年)駿府城番、寛永2年(1625年)二条城番に当たる。
徳川秀忠の代に、忠長の傅役に選ばれるも、忠長が領地没収の上切腹させられた後は浪人の憂き目に遭う。
幸庵と名乗り諸国巡礼の旅に出る。

後年、前田綱紀の元へ身を寄せると旅の経験を加賀藩士に『渡辺幸庵対話』という本にまとめさせる。
本の中では柳生宗矩と宮本武蔵(本の中では竹村武蔵と書かれており、高弟の竹村与右衛門と混同している)にふれる記述もあり、「但馬にくらぶれば、碁にていえば井目(せいもく)も武蔵強し」と武蔵の方が実力は上だと評している。

宝永8年(1711年)、130歳という高齢で死去。
現実的に130歳という年齢は考えられず、そもそも架空の人物だとする説も存在する。

小説

司馬遼太郎が『渡辺幸庵対話』の記述を元に、「真説宮本武蔵」という短編を創作している。

[English Translation]