源光長 (MINAMOTO no Mitsunaga)

源 光長(みなもと の みつなが、生年不詳 - 寿永2年11月19日 (旧暦)(1184年1月3日))は、平安時代末期の武将。
家系は清和源氏の一家系 摂津源氏の傍系 美濃源氏の左衛門尉源光信の子。
母は左衛門尉清俊女。
兄弟に源光基、源光重らがあり、子に源国長、源光経、源光衡がある。
通称は「出羽判官」。
土岐光長とも記される。
従五位下、検非違使、左衛門尉、伯耆国守。

美濃源氏の豪族・土岐氏の惣領となり、平氏政権下においても源氏の流れを汲む在京の武者として検非違使、左衛門尉を務めた。
治承4年(1180年)5月、以仁王による挙兵の企てが露見し間もなく王に配流の命が下されると、源兼綱と共に検非違使庁の兵を率いて三条高倉邸に追捕に向かった。

その後、美濃・近江国両国で起きた平家に対する大規模な反乱では光長ら美濃源氏もその中心的存在として蜂起し、翌養和元年(1181年)、近江を鎮圧した後に美濃へと攻め込んだ追討軍に敗れ居城を落とされる(「美濃源氏の挙兵」「近江攻防」)。
そして、同年3月には反乱への加勢により解官された。

寿永2年(1183年)、北陸道より進軍した木曾義仲に従い入京し、8月の除目で伯耆守に任じられる。
しかし、義仲と後白河院の関係が悪化すると院方に付き、同年11月の法住寺合戦では多田源氏の多田行綱らと共に院方の主力として御所の防衛に当たるが、激闘の末に子の光経共々討ち取られ梟首された。
その後、土岐氏の惣領は三男光衡が継承した。

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