源希義 (MINAMOTO no Mareyoshi)

または仁平2年(1152年)

源 希義(みなもと の まれよし)は平安時代末期の河内源氏の武将。
源義朝の五男で、母は熱田神宮大宮司藤原季範娘の由良御前。
源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫 (一条能保室)がいる。

生涯

平治元年(1159年)の平治の乱で父兄が死亡した後、駿河国香貫(現静岡県沼津市香貫町)にて母方の伯父の藤原範忠によって朝廷に差し出された。
兄頼朝が伊豆へ配流になった日と同日の永暦元年(1160年)3月11日土佐国介良荘(現高知県高知市介良)に流罪となる。
以降土佐冠者と号し、そのまま流刑地にて成人した。

治承4年(1180年)8月の兄頼朝の挙兵を受けて、希義に合力の疑いがあるとして平家により希義の追討令が出された。
希義は土豪の夜須行宗を頼ろうとするが、平重盛の家人である蓮池家綱・平田俊遠に事前に察知され、奇襲を受けて討ち取られたという(『吾妻鏡』寿永元年9月25日条)。
希義の師僧であった土佐国の琳猷上人は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の死体を引き取って供養したという。
文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の鬢髪を首にかけて鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。
頼朝は「上人がおいでになった事は、亡き希義の魂が再び訪ねてきた事のようです」と賛辞を尽くした。

『平治物語』における死没記事は『吾妻鏡』とは多少異なっている。
治承4年頼朝の挙兵の報を受けた平家方勢力によって包囲された希義が父義朝の為の仏事を行ってから自害した、となっている。

また、治承4年頃希義は熊野などの海上勢力と提携して南海に独自の反平家勢力圏を構築する動きを取っていた見る説もある。

同母兄である頼朝はその死をいたく悲しみ、大軍を派遣して蓮池・平田らを殲滅した。
その後、希義の墓所として西養寺を建立して菩提を弔った。
さらに希義の遺児・源希望を取り立てて吉良荘(現高知県高知市春野町)を下賜。
その末裔が戦国時代 (日本)の土佐七豪族の一・吉良氏(土佐吉良氏)となったと伝わる。

没年について

希義の没年に関しての記載は文献によって異なる。

『吾妻鏡』寿永元年(1182年)8月(寿永元年9月25日条)
『延慶本平家物語』治承4年12月1日
『尊卑分脈』『平治物語』月日は特定できないものの治承4年に殺害されているとの記載がある。

治承4年8月17日 (旧暦)(1180年9月8日)に追討を受けて自害したとの説もある。

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