源朝長 (MINAMOTO no Tomonaga)

源 朝長(みなもと の ともなが、1143年 - 1160年)は、平安時代末期の武将。
源義朝の次男。
母は波多野義通の妹。
兄は源義平、弟には源頼朝・源範頼・源義経などがいる。
相模国松田郷を領して松田冠者と号した。

父や兄弟とともに平治の乱で平清盛と戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中で落ち武者狩りに遭い負傷、傷が悪化して死亡した。

生涯
平治の乱以前の朝長の生涯においては、任官の記録が確認されている。
保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女しゅ子内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じれられている。
また、この頃には従五位下の位階を得ていた(「山槐記」)。
同じころ異母弟の頼朝は、女院号を得た統子内親王の蔵人に任じられている(「山槐記」)。

平治元年(1160年)12月、父の義朝は藤原信頼と結んで京都でクーデターを起こして政敵の藤原信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を内裏に確保して政権を掌握した。
だが、熊野参詣に出ていた平清盛が政権掌握後信頼と険悪になった二条天皇派閥と手を結び、上皇と天皇を脱出させて自陣営に迎えてしまう。

12月26日に信頼・義朝討伐の宣旨が下り、平家の軍勢が内裏を押し寄せた。
朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。
この時、朝長は16歳。
朽葉色の直垂に、河内源氏重代の澤潟(おもだか)の鎧を着て、薄緑の太刀を帯び、白鳥の羽の矢を負っていた。
合戦が始まり、待賢門では臆病な信頼が清盛の嫡男の平重盛に攻められてたちまち崩れるが、義平が駈けつけ源平の嫡男同士が激戦を繰り返えす。
義朝が守る郁芳門にも清盛の弟の平頼盛が攻め寄せて激戦となり、朝長と頼朝は父のもとで力戦した。
やがて重盛と頼盛は退却し、源氏の軍勢は門を出て追撃にかかるが、これは実は計略で、この隙に裏切り者が平家軍を内裏内に入れて門を閉じてしまった。
退路を失った源氏軍は義平を先頭に清盛の本拠六波羅へ総攻撃をしかけるが、疲れ果て力尽きて遂に敗走した。

義朝は子や一族郎党30余騎で京を落ち再挙すべく東国を目指すが、大原(現京都市左京区大原)の竜下越で落ち武者狩りの比叡山の僧兵が行く手を遮ったため合戦となった。
義朝の大叔父の源義隆は首筋に矢を受けて落馬、朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙(あぶみ)を踏みかねた。
義朝が「矢を受けたか、常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるなよ」と励ますと、朝長は「私は大丈夫です。
それよりも陸奥六郎(義隆)殿が深手を負われています」と気丈に答えた。

一行はなんとか山法師を蹴散らして先へ進むが、近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、大勢では逃げ切れないからと付き従っていた坂東武者たちを解散した。
そして義朝・義平・朝長・頼朝の親子と家人の鎌田政清以下の8騎になって東国を目指すが、伊吹山の山道に入ると雪も深くなった。
武具を着けては進めないと源氏重代の鎧や武器を捨てて先へ進んだ。
だが、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。

一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。
ここの長者大炊の女・延寿は義朝の妾のひとりで、夜叉御前という娘をもうけていた。
一行はここでもてなされて休息した。

ここで義朝は義平は東山道へ、朝長は甲斐国信濃国へ赴き兵を募るよう命じた、兄弟は承知し、直ちに宿を出た。
朝長は左脚に傷を負っており、心細げに兄に「信濃はどちらの方でしょう」と問うと、義平は雲をにらんで「あっちだ」と言うと、さっさと飛騨国の方へ駆け去ってしまった。
朝長はひとり信濃へ向かうが、傷が悪化してどうにも進めなくなり、やむなく青墓宿へ引き返した。
義朝は「情けない奴だ。
頼朝ならば年若くてもこうではあるまい」と怒った。

義朝が「傷が癒えるまで、ここに留まっていろ」と言うと、朝長は「ここに居ては敵に捕らえられてしまいます。
どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」と懇願した。
「お前は不覚者だと思っていたが、やはり俺の子だ」と言うと太刀を抜く。
驚いた大炊と延寿があわてて止めに入り、義朝は「こやつの性根を試してやっただけだ」と太刀を納めた。

その夜、義朝は「大夫(朝長)は如何か」と寝所の朝長に問いかけた。
朝長は「お待ちしておりました」と答えて念仏を唱えた。
義朝は太刀を抜き我が子の胸を三度刺して首をはね、遺骸に衣をかけた。
義朝は悲しみに涙を流した。
義朝は大炊に「朝長を見ておいてくれ」と言い残すと出立した。
朝長が朝になっても出てこないために、心配になった大炊が様子を見に行き、義朝の言った意味が「供養せよ」ということだと分かった。

その後、尾張国で義朝は長田忠致の裏切りにあって殺され、首は京へ送られた。

大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したがやがて平家の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首を取られて、京の六条河原に義朝とともにさらされた。
朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、駿河国袋井三川(現静岡県袋井市)に埋葬した。
そのため朝長の胴の墓は岐阜県大垣市に、首の墓は静岡県袋井市に二つある。

江戸時代の俳人松尾芭蕉は青墓の朝長の墓所を訪れて「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」と詠んでいる。

また、修羅能の演目に朝長の死を扱った『朝長』がある。

[English Translation]