源義隆 (MINAMOTO no Yoshitaka)

源 義隆(みなもと の よしたか、生年未詳 - 平治元年(1159年))は、平安時代末期の武将。

生涯

河内源氏第三代、鎮守府将軍源義家の七男。
(六男とも)森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号したという(七男であるが、四兄が家人の高階氏に養子入りした関係で六郎ともいう)。
義家の子の中で一番の長命であり、一族の長老として尊崇を集める。
相模に所領を持つ。

1159年の平治の乱のおり、源氏の棟梁・源義朝(甥で源為義の嫡男)に従って参戦。
平家に敗れて関東へ落ち延びる際、比叡山の龍華越で落ち武者狩りの横川の悪僧の一群と遭遇する。
義隆は義朝の次男・源朝長とともに義朝の盾となり、悪僧の放った矢にあたって落命した。
義朝は義隆の首が敵の手に落ちぬよう、自ら堅田の湖(滋賀県大津市)に重しをつけて沈めたという。
官職は不明だが、位階は六位だったというが、記録によっては信濃守と載せる。
おそらくは平治の乱における藤原信頼の除目によるものと考えられる。
信頼が逆臣とされた為、正規の人事として記録されなかった可能性もある。
子には源義広 (毛利治部丞)、久下直光、源頼隆、源定隆らがいる。

古文書・軍記における義隆の記述

『平治物語』~上巻・第十四章…源氏勢揃いのこと~(解説)

この巻では藤原信頼と源義朝が挙兵し、天皇及び後白河天皇を幽閉し、自らを官軍として政敵藤原信西・平清盛の打倒を目論んだが、熊野詣をしていた清盛が密かに帝と院を救出。
これを聞いた義朝が、詳細な連絡は信頼からはないが、そうあっても、心変わりをするのは源氏の習いからいってよろしくない。
篭る軍勢を挙げよといい、源氏方の大将と郎党の名を披露したという。
この時、大将の列に名を連ねた武将に義隆がいた。
その折の大将の名簿は次の通りである。
大将に悪右衛門督信頼、その子 新侍従藤原信親、信頼の実兄にあたる兵部権大輔藤原家頼、民部権少輔藤原基成、弟の尾張少将藤原信説、そのほかに伏見源中納言源師仲、越後中将藤原成親、治部卿兼通、伊予前司信員、壱岐守貞知、但馬守有房、兵庫頭源頼政、出雲前司源光保(光保)、伊賀守光基、河内守源季実、その子息左衛門尉季盛、義朝はじめ源氏一門ではまず左馬頭義朝を筆頭に、長子鎌倉悪源太源義平、次男中宮大夫進源朝長、三男兵衛佐源頼朝、義朝の叔父陸奥六郎義隆、義朝の弟新宮十郎源行家、従兄弟の佐渡式部大輔(大夫)源重成、平賀四郎平賀義宣とある。

『平治物語』~中巻第三章 六波羅合戦のこと~(原文)

※この巻では六波羅合戦に傘下した源氏方の武士の名を記している。

「これをかぎりと見えければ、伴輩たれたれぞ。
悪源太義平・中宮大夫進(源朝長)・右兵衛佐(源頼朝)・三郎先生(源義憲)・十郎蔵人義盛・陸奥六郎(源義隆)・平賀四郎(源義信)・鎌田兵衛(鎌田政清)・後藤兵衛(後藤実基)・子息新兵衛(後藤基清)・三浦荒次郎(三浦義澄)・片桐小八郎大夫(源景重)・上総介八郎(上総広常)・佐々木三郎(佐々木秀義)・平山武者所(藤原季重)・長井斎藤別当実盛(斎藤実盛)をはじめとして廿余騎、六波羅に押し寄せ云々」(『平治物語』より)。

『平治物語』~中巻第四章 義朝敗北のこと~(解説)

比叡山延暦寺の西塔の僧兵達は源氏方がでは藤原信頼、源義朝が平家方に敗れ、大原口へと落ち延びてゆくという噂があり、「落人にとどめをささん」と軍勢を繰り出してきた。
一度は長井別当実盛が僧兵を説き伏せ、窮地を脱したものの、今度は横川(よがわ)の法師達が龍華越のあたりで待ち構えており、僧兵が弓矢を射掛けててきた。
義隆は馬が疲れて少しの間、戦線から下がっていたが、複数の法師が義隆を取り囲んで無数の矢を射掛けてきたので、義隆は太刀をふるって追っ払ってはみたものの、龍華越は山蔭の道は難所である故、馬を駆けさせるところもなかった。
これにより義隆は内兜を射られて、頚の骨に矢が達し、馬から真っ逆さまに落ち、義朝の次男・朝長も太腿を射られたという。
義朝は朝長を気遣い、傷跡を鎧で抑えて、敵に背後をとられぬ様に諭すが、朝長がいうには「毛利六郎殿の方が手負うている」と述べ、源氏一門の長老を気遣った。
義隆は気分が悪いので馬から降り立って、座りこみ木の根のところに寄りかかって息をついたという。
横川の法師の中には、丈七尺という大柄の法師がおり、この者が黒革威の大腹巻に、同じ縅毛の袖をつけ、左右に籠手をつけて長刀を振りかざして、義隆を討とうと迫ってきた。
それを源氏の家人、上総介八郎弘常が引き返して来て馬から降りて、その法師と打立ち合った。
上総介八郎の家人は、義朝に追いつき、義隆が痛手を負っているので、敵方に義隆の首を取られぬ様、主君介八郎が打ち合っていると報告した。
しかし、それももう討たれてしまったかもしれぬと伝えた。
義朝はこれを聞き、報告のすべてを聞かず引き返して叫び声をあげ、平山武者所季重、長井斎藤別当実盛らも引き返したという。
義朝主従は義隆の座り込んでいるところまで近づき、義朝が義隆の手に手をとって、具合を尋ねた。
義隆は目を開いて義朝の顔を一目見た後、涙をはらはらと流した後、すぐに亡くなった。
義朝は目も当てられずに涙を抑えて、上総介八郎に首をとらせ、馬に乗って落ち延びて行ったものの、義隆の討ち死にを敵方には知らせまいとした。
目や鼻、顔の皮を剥ぎ取って、重しの石を首に結び付けて、谷川の淵に入れたという。
この時、義朝は人目も憚ることなく泣き、「八幡のお子でただ一人生き残ったこなた様にここでお別れ申しまする。
御無念なれば魂魄をこの世にとどめ置かれ源家の末を守らせ候え」と述べたが、この時は源氏主従は皆涙を流さない者はなかったといい、
八幡太郎義家の武勇を伝える源氏の老将の死を悲しんだという。

『平治物語』~下巻第一章 金王丸が尾張より馳せ上ること~(解説)

(先年、義朝は尾張国にて家人の長田忠致の裏切りで亡くなった。)
平治2年になって、尾張国から馳せ戻った義朝の家人渋谷金王丸は主人の愛妾 常磐御前の下へと走り、義朝の最期を伝えた。
特に義朝次男源朝長が亡くなり、源氏の長老毛利六郎(陸奥六郎義隆)も討ち死にしたと告げた。
(陸奥六郎義隆は相模国毛利庄を領したことから毛利冠者と名乗っていた。
)と告げた。
常磐は(義朝様は)あれほど戦時にあって金王丸を介して子らのことを思うてくれたのに、お亡くなりになった。
この後はどうすればよいのかと伏し沈んだといい、源氏主従の死に常磐と幼い子らも泣き、金王丸も泣いた。
金王丸は鎌倉御曹司(源義平)も兵衛佐様(源頼朝)も捕らわれてしまい、幼い弟君も頼りないことでしょうといい、よって、金王丸は義朝の後世を弔う為に出家すると申し述べてそのまま走り出ていったといい、どこかの寺にて修行して諸国七道を歩いたという。

『吾妻鏡』~治承4年9月17日~(原文)

頼朝、平家追討の旗を挙げ、石橋山の合戦にて敗れ房総に落ち延びた折、味方に参じた千葉常胤の屋敷にて、かの陸奥六郎義隆の遺児を引き合わされた。
以下は時の模様。

「御前に進せて云く、これを以て今日の御贈物に用いらるべしと。
これ陸奥の六郎義隆が男、毛利の冠者頼隆と号すなり。
紺村濃の鎧直垂を着し、小具足を加う。
常胤が傍らに跪く。
その気色を見給うに、尤も源氏の胤子と謂うべし。
仍ってこれに感じ、忽ち常胤が座上に請じ給う。
父義隆は、去る平治元年十二月、天台山龍華越に於いて、故左典厩の奉為命を棄つ。
時に頼隆産生の後僅かに五十余日なり。
而るに件の縁坐に処せられ、永暦元年二月、常胤に仰せ下総の国に配すと。
」(『吾妻鏡』より)

なお、吾妻鏡では続けて、平治物語に綴られている義隆の模様を下記の通り紹介している。

吾妻鏡 義隆の紹介(平治物語の記述より抜粋したものか)

「爰に義朝の伯父陸奥六郎義高(本来は“義隆”)は、相模の毛利を知行せしかば、毛利冠者共申けり。
此 人、馬がつかれて少しさがりたりけるを、法師原が中にとりこめて、さんざん射けるほどに、義高、太刀うち振て追払々々しけれども、山陰の道、難所なれば、馬のかけ 場もなし。
結句、内甲を射させて心ち乱れければ、下立てしづしづと座し居つヽ、木 の根により、息つきゐたり。
(中略)毛利六郎、目をひらき、義朝の顔をただ一目見、涙をはらはらとながしけるを最後にて、やがてはかなく成にけり。
」(『吾妻鏡』より)

子孫

長男・源義広 (毛利治部丞)は、武蔵国に住した。
同家七代・毛利広明の代に美濃国石田に移住し土岐氏に仕え、毛利広盛は織田・豊臣家に転じた後、徳川家康に仕え、家は代々尾張藩に仕える藩士となった。
尾張国八神城主の家柄。
(毛利氏 (源氏)の項を参照。)

次男・成木太夫・武蔵権守久下直光は義隆と小山行政の娘との間に生まれ、義隆が平家に敗れた後、下野国の代表的な豪族小山氏に匿われたという。
久下氏として武蔵国に自立した。
当初、大庭党に属していたが源頼朝が挙兵すると、一番に駆けつけたことから一番字という家紋を与えられた。
妻の甥にあたる熊谷直実と所領争いをして勝利する。
子孫は丹波国に住した。
南北朝時代、久下氏は源氏の名門足利氏の棟梁 足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと一番に足利軍の陣中に駆けつけたことから、丹波国内に多くの所領を得て丹波国内最有力の勢力を築く。
室町幕府の権力闘争により起きた明応の政変によって将軍家が足利義澄派と足利義稙派に分かれると、久下氏は将軍義稙につき没落。
戦国のさなかに近隣勢力の侵食を受けて、所領を失う。
久下氏の庶族には鵜飼氏、岩内氏がいる。

三男・若槻伊豆守源頼隆は下総国の千葉常胤の下で成人し、のち義朝の子源頼朝によって取り立てられた。
頼朝が平家追討の兵を挙げて千葉氏が頼朝の下に参陣した際、頼朝は源頼隆に千葉常胤より上座に据えたという。
その子孫は若槻氏・森氏などがいる。
若槻氏からは押田氏・多胡氏が分出した。
若槻氏の嫡流は信濃国北部に所領を得るが、戦国初期に若槻広隆が村上氏の攻撃を受けて滅亡する。
子孫には幕末維新時に伊勢の大名家の家老として活躍した者も見られる。
出雲国にも若槻姓が存在するが、これは子孫か。
若槻氏支流の多胡氏は出雲国の尼子氏の家臣に多胡氏(多胡辰敬ら)がいる。
源義隆の末裔を称するという説もあるが、大江氏の子孫であるという説もあり判然としない。
押田氏は鎌倉時代以降、千葉氏の家老として活躍し、しばしば主家の姫と婚姻して千葉氏の一門並の待遇を許される。
千葉氏は後北条氏にその勢力を吸収され、豊臣秀吉の小田原征伐において滅亡するが、押田氏は江戸幕府の旗本として存続する。
押田勝長の娘 贈従二位清涼院(於楽御方)は12代将軍徳川家慶の側室であり、達姫、嘉千代及び一橋家の当主となる徳川慶昌を生む。

森氏は義隆の孫、頼定の次男 定氏の家系が代々、美濃源氏の土岐氏に仕え、森可成の代に織田信長に仕官している。
次男は信長の小姓として有名な森蘭丸である。
その弟が美作国津山藩祖・森忠政であり、豊臣政権下では豊臣秀長の娘婿となり羽柴姓を授けられたが、関ヶ原の戦いでは東軍につき、作州津山藩18万石の大大名となる。

森頼定の次男、森定氏の子孫は美濃森家として戦国武将、近世大名としての成長を遂げる。
しかし、その過程で清和源氏の関氏と代々縁戚となり、遂には家臣の列に加え、江戸時代には関氏を分家として遇して支藩を分知し、養子を入れて森家の庶族となした。
四男は上野朝氏を名乗り、上野氏の祖となり、
七男・森義通の嫡男は笠合義宗を名乗り笠合氏となる。
頼定九男 伊豆守戸田信義にはじまる戸田氏は当初、尾張国に拠点を置いていたが、次第に三河国に勢力を拡大した。
渥美半島を拠点として松平氏・牧野氏と三河を三分する勢力を形成する。
しかし、今川氏・織田氏・松平氏という大勢力に囲まれてそれらの配下として主家を転々とし、
今川方にある時に織田氏に転じて一度は滅ぼされるが、子孫が徳川家康の配下となり武勲を挙げて譜代大名をはじめ旗本、親藩の藩士などを輩出する。
戸田氏の嫡流は康長は徳川家康の異母妹 松姫の婿となり松平康長となり代々、松平姓を継承する。
なお、森頼定のいずれの子孫かさだかでないが、讃岐国の豪族に陸奥七郎義隆の子孫と伝わる森氏があった。

四男・近江守高松定隆は長じた後、陸奥国白河市に所領を得る。
四代の子孫 高松定安は南北朝時代、南朝方に組して北畠顕家の幕下に入り、利根川において足利尊氏の大軍を打ち破るという。
伊達氏の家臣である、懸田氏は高松氏の子孫を名乗るものの、その系図は高松氏を森頼定の後胤として記されており、真偽については歴史学的検証を待つところである。
現在のところ、定かでないといわれている。

その他、義隆の子孫には大滝氏、稲守氏、稲森氏・黒沢氏などがいるというものの、成否及び詳細は定かではない。

[English Translation]