牛原虚彦 (USHIHARA Kiyohiko)

牛原虚彦(うしはら きよひこ、本名・清彦、1897年3月22日 - 1985年5月20日)は、大正・昭和期の映画監督。

熊本県熊本市に生まれ、1920年、東京帝国大学(現・東京大学)文学部英文学科を卒業。
小山内薫の紹介で松竹蒲田撮影所に入社。
新派劇出身の賀古残夢監督の助手を務めた後、1920年、小山内が松竹キネマ研究所を創立すると、そこへ移った。
第1回作品『路上の霊魂』の脚本を書き、出演もこなす。
2作目の『山暮るる』で監督デビュー。
研究所解散後は、蒲田撮影所の監督となり、井上正夫主演の『噫無情』などを撮る。
1926年、ハリウッドへ渡り、チャーリー・チャップリンの『サーカス (映画)』の撮影隊の助手として研鑽を積む。
帰国後、1926年のメロドラマ『受難華』をヒットさせた。
1928年から1929年には鈴木傳明を主役に明朗快活な青年像を描いた作品を発表し、青春映画の原型を形作った。

1930年、トーキー技術研究のため、2年間、欧米に渡る。
帰国後、1933年日活太秦撮影所に移り、さらに1934年、新興キネマ京都撮影所に移る。
『南風薩摩歌』(1937年)などを発表するが、サイレント時代のような清新さは見られなくなった。
1949年、特撮映画の先駆けともいえる作品『虹男』を最後に、新興キネマの統合によって移っていた角川映画を退社する。

1950年、日本大学芸術学部映画学科客員教授になり、1956年から同学科主任教授。
1975年からは日活芸術学院院長を務めるなど一貫して後進の指導にあたった。

映画監督牛原陽一は実子。

[English Translation]