猪熊教利 (INOKUMA Noritoshi)

猪熊教利(いのくま のりとし、生年不詳 - 慶長14年10月17日 (旧暦)(1609年11月13日))は、江戸時代初期の公卿。
本姓は藤原氏。
家系は藤原北家四条流の流れを汲む山科家の一門。
山科家の一門で従三位山科教遠の子か。
室は生駒一正娘の山里。
子に生駒河内(生駒氏の家臣となる)。
極官は左近衛少将。

略歴
豊臣秀吉が関白太政大臣のころ(天正13年(1585年))、当時の当主であった山科言経が勅勘を蒙って地方へ下ったため、庶流であった教利が山科家を代表して朝廷に仕えた。

しかし秀吉の死後、徳川家康の取り成しによって、慶長3年(1598年)言経が朝廷に復帰したため、教利はやむなく分家して猪熊家を興した。
家名は平安京の猪熊小路に由来する。

教利は『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と称されて京都の流行になるほど評判であったが、かねてから女癖の悪さにも定評があり、「公家衆乱行随一」と称されていたとされる。
慶長12年(1607年)2月、宮廷女官との密通が明らかとなった結果、後陽成天皇から勅勘を蒙って追放されるが、のち京へ戻った後も素行は収まらず、多数の公卿を誘っては女官と不義密通を重ねた。
また、天皇寵愛の女官とも関係を持ったという。

慶長14年(1609年)7月、参議烏丸光広ら公家衆の密通が露顕する事件(猪熊事件)が起きると、乱交の手引きをしていた教利は京都所司代の追及を恐れて九州へ逃亡する。
一説に李氏朝鮮への逃亡を企てていたと伝わる。
しかし同年9月16日、日向国で潜伏していたところを捕らえられ、10月17日、京都の常禅寺において斬刑に処せられた。

[English Translation]