相良頼房 (SAGARA Yorifusa)

相良 頼房(さがら よりふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
肥後国の戦国大名である相良氏の当主で、肥後人吉藩の初代藩主。

相良義陽の次男。
相良氏の当主。
初代人吉藩主。

長毎(ながつね)とも言う。
官位は従五位下、官職名は左兵衛佐。
なお、父・義陽も初名は頼房である。

家督相続

天正2年(1574年)5月4日、相良義陽の次男として生まれる。
天正9年(1581年)に父・義陽が戦死すると、相良氏の家督は兄の相良忠房が継ぎ、頼房は島津氏の人質として薩摩に送られた。
しかし忠房が急逝したため、天正13年(1585年)に12歳で家督を継承した。
以後は島津氏に従い、大友氏攻めなどに従軍した。

豊臣氏時代

豊臣秀吉の九州攻め軍に降伏し、家臣の深水長智の交渉もあって、所領を安堵され、小大名ながら存続することができた。
文禄元年(1592年)の文禄の役、慶長2年(1597年)の慶長の役にも参陣した。
加藤清正配下の部隊として功を挙げ、秀吉から感状を与えられた。

関ヶ原から江戸時代

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、はじめは西軍に加わって伏見城攻防戦などで活躍した。
しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、家臣の犬童頼兄の進言を受けて、徳川家康率いる東軍に大垣城にて内応した。
西軍の武将である垣見家純らを殺害して降伏し、家康から所領を安堵されて存続を許され、2万石の人吉藩初代藩主となった。

その後は藩政の実権を頼兄に掌握され、また家臣団の対立などにもたびたび悩まされたが、藩法や藩政の整備に尽力した。
寛永13年(1636年)6月13日に死去。
享年63。
後を長男・頼寛が継いだ。

[English Translation]