石塔頼房 (Yorifusa ISHIDO (石塔頼房))

石塔 頼房(いしどう よりふさ)は、石塔氏3代当主。
義房の次子。
兄範家死没後に嫡子か。
石堂頼房も見よ。

最初は殆ど父の義房と行動し、1335年に中務大輔。
1349年まで播磨国這田荘の地頭職を得る。

高師直の排斥の計画が露見し、足利直義が大和国へ逃れると、直義を南朝 (日本)に服従させた。
1350年(正平 (日本)5年/観応元年)に詔を承り生駒山で挙兵した。
足利尊氏が播磨国の書写山(現兵庫県姫路市)へ奔ると、後を追い、そして尊氏軍を撃破する。
1351末には、駿河薩埵山の戦いに敗北。
その後、直義が死去し、尊氏方に降る。
父の義房が新田義興と内通し、このことを尊氏に通告し義興と戦う。
やがて、足利直冬方に属し、南朝方武将となって刑部卿に補任された。

1353年には足利義詮を、1354年には尊氏を近江国に追った。
1361年(正平16年/康安元年)12月楠木正儀・細川清氏らと共に2代将軍の義詮を再び近江に奔らせ、暫く京で検断を司った。
翌1362年(正平17年/康安2年)摂津国に転戦し、赤松光範を攻撃した。
その後、貞治3年(1364年)頃に京を奪還した義詮に降伏した。
この後、出家し叔父である時衆の名僧・国阿に弟子入りし、滋賀県大津市にある霊仙正福寺中興の祖となった。

頼房の子三河守石塔頼世は将軍足利義満の馬廻を務めた。
しかしその後、石塔氏は記録には表れなくなった。

[English Translation]